三弦調

□壱越
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遅い昼食を摂り定食屋を出た時には既に日は西に傾いていた


「秋の日は釣瓶落としとはよく言ったものでござるな。」


夕陽に染まり始める町並みと
ふと口をついで出たフレーズにインスピレーションを受ける


歩きながら浮かんでくるメロディーを追い掛ける


どんっ!


「きゃっ!!」


突然、左肩の辺りに柔らかい衝撃を受ける


曲の世界が弾け意識を日常に引き戻される


足元にたった今ぶつかって転んだであろう娘と風呂敷包みと白杖…


若い娘とぶつかった様だ


「済まん、考え事をしていたでござる、怪我は無いでござるか?」


道端に尻餅をついたままの娘に声を掛ける


「はい…申し訳ございません
こちらこそ考え事に耽っていたもので…」


「さぁ早く立ち上がるでござる。」
万斉は手を差し伸べるが
娘は杖を手探りで探しあて、手を借りず立ち上がる


「お主目が…」


「はい…生まれつきなんです。」
慣れた様子で白杖で地面を何度か探り風呂敷包みを見付けて抱える


「もう大丈夫です、こちらこそ本当にすみませんでした。
では…失礼致します。」
娘は頭を下げその場を立ち去った


娘の後ろ姿を見送る


そう云えばさっきはどんなフレーズが浮かんで来ただろうと
残像を思い出そうとしたがもう何処かに霞んでしまった


『まぁそれまでのものだったのだろう』


こんな事も日常茶飯事なので敢えて忘れてしまったフレーズを深追いする事は無い


去るものは追わず
心に残るものでは無かったと云う事だ



ふと足元に綺麗な織物の施された小さな箱を見つける

「これはさっきの娘の…?」


悪いと思いながらも中をあらためる


「琴爪か…」


娘の歩んだ方に目をやる

『そう遠くへは行って居まい』

マイペースな万斉には珍しく歩みを早める


すると角を曲がった小間物問屋の暖簾をくぐろうとするさっきの娘を見つける


「待つでござる。」


その声に娘は一旦動きを止め
辺りの様子を伺う

「そうでござるお主の事でござる。」


自分の事であると理解した娘は声の方向へ視線を泳がせる


「この声はさっきの…
あの、私に何か?」

「これを落としたでござる。」

娘の側に寄り風呂敷包みを小脇に抱えた左手に
小箱を握らせる

憶えのある手触りにそれが何であるかすぐに理解する
「まぁありがとうございます、全然気が付きませんでした。」


「すぐにお主が見つかって良かったでござる。」

「私の方こそ
ありがとうございます。
これを無くしたら大変でした。
お爪と爪輪は指に馴染むのに時間がかかります、
かと云って使い過ぎても爪が短くなったり薄くもなります。
爪輪も伸びすぎてしまいますし…
今丁度馴染んできた処なので
本当に助かりました。」


楽器を扱う者として楽器の大切さは良く解る
普段は気にも止めなかったであろう落とし物も
こうして持ち主に届けてしまった




「お礼を致したいのですが、貴方様の御名前を教えて戴けませんか?」


「いや…名乗る程の者にはござらん。」

「ここは私の家でございます
どうぞ中でお茶でも…」

「お気持ちはありがたいが、その様な礼など無用にござる。」
落とし物を届けただけで長居は無用と立ち去ろうとする

すると突然娘にがっしりと腕を掴まれ
「待ってください、誰か、お父様をお呼びして
お世話になったお礼がしたいのです。」
店の中に声を掛ける


盲目の娘の手を払うわけにもいかず仕方なく


「…一杯だけでござる。」
と観念する



父親の方からも丁寧な挨拶をされ
是非にと屋敷奥の娘の部屋に通される

普通なら客間に通される処だろうが
娘は「私の部屋へ」と案内した


やれやれと思い通された部屋に愕然とする

「な、何でござるか?この部屋は?」


年頃の娘の部屋と云うものはもっと可愛らしいものでは無かったか?

この機材、ブースまるでレコーディングスタジオの様では無いか
と云うかレコーディングスタジオそのものである

「ふふふっ、小娘の宅録機材にしては立派過ぎるとお思いでしょうね。」




「先程ぶつかった時に貴方様からお三弦の胴が響いた様な気がしたのです

それと、箱を握らせてくれた左指の先が弦楽器を弾く方だな…って


ぜひ一曲お手合わせ願いたいのですが、いかがでしょうか?」


中々に面白そうな趣向ではないか
「よかろう…」

「嬉しい、では古典物はいかがでしょうか?
六段の調でお願いできますか?」

「承知した。」


その言葉を聞き嬉々として娘が調弦しだす

娘の調弦に合わせ背負っていた三弦を取り出し万斉も調弦をする







「では、よろしくお願いいたします。」

娘が膝の上に手を重ねゆっくりと浅いお辞儀をする

演奏前の挨拶だ


娘が琴の竜頭を中指のお爪でゆっくり2回はじき曲のテンポを知らせる

シャンと一鳴りさせ娘の手事に合わせる





『これは…』
娘の弾き出す音色に演奏家としての力量を知る
これは合わせる処では無い
曲を弾いているのでは無く
娘自体が音楽であり音を奏でている


心が躍る
いや、それ以上だ



普段はプロデューサーとして楽器を弾き音楽と接しているが


一人の演奏家として三弦を鳴らす事への情熱を思い出させる


久々の高揚感と熱に胸が震える



気が付くといつの間にか曲を弾き終わっていた


ふと娘の声が聞こえて来る
「ありがとうございました。
弾いていてこんなに楽しかったのは久し振りでございます。
貴方様は名のある演奏家の方とお見受けしましたが…
今一度お名前をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


伺う娘の問いに一呼吸置いて


「…つんぽと申し音楽に携わる者でござる。」と答えた


「やっぱり。」
娘はにっこりと笑い

「前に一度、貴方様の手を聴いた事があります。
とても不思議で魅力的な音をお出しになる方だと…
いいえ、貴方様自体が音であると感じました。

いつか手合わせ願えたら…とずっと思っていて

ふと貴方様の事を思い出したのです

そしたら偶然つんぽ様とぶつかって

何となくその時感じた雰囲気が以前感じたものに似ていたので、
もしやと思い図々しくもお手合わせ願いました

今日はとても楽しかったです

いつか誰かにプロデュースした曲では無く、
つんぽ様の…貴方様の曲を是非お聴かせ下さい 。」


娘の家を出る頃は辺りはすっかり暗くなっていた



帰る道すがら万斉はふと考える

なぜ本当の名を言えなかったのだろう…


己れの…
河上万斉としての音とは如何なるものか…


自分が表現したいものとは…




晋介…お主には笑われるかもしれないが一つ問うてみたい



お主には一体どう響いているでござるか?

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