その他

□ピカデリー
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「タナベちゃんよォー……」


 右手で耳の穴をほじくりながらイライラした顔で八郎太が言う。その声に田名部は真面目な顔で応える。


「はいっ!」
「はいっ!じゃねェよ!いつになったら覚えてくれんだっ」


 また始まった、とフィーとユーリは気に留めることもなく黙々と自分の作業を続けている。こんな言い争い――八郎太の説教は日常茶飯事で、逆に無い方が珍しい。


「だーかーら、そこのアームを動かすにはこっちのボタンで……」
「えっ!こっちはあれを動かす……」
「あれはこっちじゃなくてそこの……」


 二人の間に指示語ばかりが飛び交う。何度も何度も教えた作業手順をまだ田名部は覚えていない。どれも似たような器械のそれらに、彼女の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいた。
 そんな彼女を見て、八郎太はため息をつく。


「もういい……一旦休憩だ」
「はっはい!すみません!」


 パタパタと、どこかへ行こうとする田名部に、八郎太は思い出したように言う。


「そういや、ここにあった書類、出しといてくれたか?」
「へ?書類……ですか?」
「あ゛?この前頼んだろ?こっちの書類を出して、あっちの書類を捨ててくれって」


 八郎太の机の上には一枚の書類しかない。八郎太が“こっち”と指差した方には何もなく、“あっち”と指差した方の書類である。
 田名部は、あっ、と小さな声を出して顔を真っ青にする。


「わっ、私、逆にしてしまいましたっ」
「はぁ!?お前……あれがどれだけ重要な書類か……」
「今すぐ取りに行ってきます!」


 びゅう、と風をたてて勢い良く出て行った。彼女のことだからきっと、全てのゴミ袋からたった一枚の書類を探すに違いない。それはとてつもなく労力と時間のかかることだ、と八郎太はもう一度ため息をついた。


「あねさん……もう俺、駄目だわ」
「頑張りなさいよー。セ・ン・パ・イ」


 意気消沈の八郎太をよそに、フィーは楽しそうに笑う。八郎太は机の上にうなだれたまま、顔を上げようとしない。


「彼女も、悪気があったわけじゃないんだろ?」


 ユーリが八郎太とフィーの机の上にコーヒーを置いた。フィーが煙草を灰皿に押し付け、コーヒーを啜る。その音で、八郎太は気怠そうに体を起こした。


「んなこと分かってる……。なんつーか、頑張ってんだけどそれが裏目に出るっていうか、抜けてるっていうか……」


 本日三度目のため息をついた後、コーヒーを一気に飲み干した。そして立ち上がり、軍手をふたつ用意する。


「どこか行くの?」
「もともと俺があいつに指示したのが間違いだった。俺も行ってくる」
「気をつけて」


 ユーリのその言葉に、八郎太は黙って右手を上げる。ドアが開き、閉まる。
 それを確認してフィーはユーリに驚いたような、感心したような顔を向ける。


「まさかあのハチが妥協するなんて」


 ユーリは肩をすくめて笑った。それにつられてフィーも笑って、機嫌良く煙草に火をつけて口にくわえる。


「彼女は、ピカデリーみたいな子だな」
「なに、それ?」
「快活で馬鹿っぽくて、それでいて憎めない」
「ははっ、確かにねぇ」


 八郎太や、宇宙さえも変えてしまうような彼女のその言動はピカデリーのように飽きさせない。


「ハチ、タナベはアンタに足りないモノをくれるかもよ?」




田名部の演奏はまだ始まったばかり――







fin...



09.06.07
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