短編

□蛇と梨 壱
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「梵。梵天丸」

鈴が転がるような、とは男の声を表現するには些か軟弱に思われるだろうが。
だが確かにその声は大層美しく、涼やかで。
高くもなく、さりとて低すぎくもないそれは不思議と耳障りもよく、離れた位置にいたその子供に凛と届いた。

「はい父上!」

呼ばれたそれは、転げるような勢いで男の元へと駆け寄った。
まるで子犬のようだ。
そうして男が座る目の前に、礼儀正しくちょんと正座する。
焦げ茶色の髪に隠れた右目は病により失ったとはいえ、対の左目が生き生きと光をとらえてきらきらと、父上と呼んだ男を見上げる姿は、男にとって何より愛おしい。

男は、そんな幼児に仕様もなく笑みが溢れ、「そう急かなくても構わないよ」と、小さな頭を左手で撫でた。

「北条殿から甘味が届いてね、小太郎が届けてくれたんだが…一緒に食べようか」

瞬く間に表情を明るめ、「じゃあ、お茶をいれてくる!」と今にも駆け出しそうなやんちゃの腕を左手で掴み、こらこら急くな、と男は宥めた。

「お茶は久秀が用意してくれるそうだ。光秀も来るそうだから、先に迎えに行ってやってはくれないか?」
「光秀も来んのか?じゃあ蘭丸もいる?」

頷く男に、幼児は嬉しそうにした。
喧嘩及び悪戯仲間の来訪とあっては、先にそちらを優先せねばなるまい。お茶は、自分が淹れるよりも遥かに上手く淹れられる者がいるならそちらに任せた方が良いし、何より父上たっての希望である。

「城門で待っていればそのうち来るだろうから、小太郎と待っていなさい。小太郎、構わないね?」

男が天井に向かって問いかける。
すると、音もなく部屋へと降り立った上背のある赤毛の忍は、慣れた様子で男と幼児へ浅く頷き、是、と意思表示した。

天井から男が降ってくる。
本来の人間なら仰天しても可笑しくはない話だが、残念ながらここにいる親子は普通の人間ではない。

最早日常茶飯事の光景に驚きもなにもなく、そもそも男も幼児も“天井に誰がいる”というのは既に百も承知であったのだから、それが降りてきても今更である。

そんな事実。
幼児にまで気配を気取られているという現実を、己の鍛練の怠惰のせいととるか、将又目の前にいる親子の実力が異質なのだととるべきか。
と、幾許。
飽きれとも感嘆ともとれる思考を一秒。

伝説と呼ばれる忍は瞬間に思考を切り替え、目の前の可愛らしい幼児と共に、友人方を迎える為に城門へと歩き出した。
手をつなごう、とあどけなく要求され、右手を小さな紅葉に引き寄せられながら。


残された男は、渡されていた甘味を左手に抱えて茶室へと向かっていた。

その歩く姿はまるで百合の花を思わせ、道行く者がいれば思わず見惚れるだろう優美なものだった。

肩口まで伸びた白金色の髪に隠れた右目はどこか艶美で。世界をとらえる左目は柔和な笑みを湛えていた。
体の線は細く、一見すれば優男と見てとれるが。袖から覗く左手は筋肉で固く、練磨された身捌きは常人の者ではない。
右腕はとある事故によって肘から下を失っているが、それでも損なわぬというべきか、それが故にというべきか。
男の美しさは歳を増すごとに精練されていく。


大和にある多聞山城に身を寄せる彼は、名もなき浮浪者でも世捨て人でもない。

男の名前は雪陽。
群雄割拠の戦国の世を騒がせ駆け抜けた、名高き武将の一端。
つい二年ほど前までは、伊達政宗と名乗っていた。

奥州の、独眼竜だった男である。



「やい梵天丸!蘭丸が遊びに来てやったぞ、感謝しろ!」
「だれが感謝するか!むしろ、わざわざでむかえてやった梵をほめろ!」
「なにを!梵天丸のくせに生意気だぞ!どうせ雪陽に言われて来ただけのくせに!」
「蘭丸だって、父上に会いたいから光秀にだだこねてついて来ただけだろ!」
「だっ、駄々なんかこねてねえよバァーカッ!」
「ばかって言うほうがばかなんだばぁーか!」

「そんな稚拙で幼稚な言い合いをしている内はどちらもお馬鹿ですよお子様達。おや風魔、梵のお守りですか、ご苦労様です」
「……」


 
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