短編

□蛇と梨 参
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久方ぶりに恋人と数日を過ごした雪陽は、遠目に見える葉桜を見やった。
もう明日には光秀も、本来あるべき坂本城に帰ってしまう。その事もあって、彼は今は身支度を済ませてしまうと雪陽の部屋にいる。何故客室でなく雪陽の部屋なのかといえば、彼はこの数日、ずっと雪陽の部屋で過ごしていたからである。
全く同じ理由ではないが、蘭丸も、どうせならと梵天丸の部屋で寝泊まりした。

蘭丸と梵天丸は今頃、最後だからとまた盛大に稽古と言う名のじゃれ合いをしていることであろう。十四になって以前よりは落ち着いた言動をとるようになった蘭丸だが、どうにも梵天丸を前にすると、やんちゃ坊主に戻ってしまうようだ。

先に身支度を済ませてしまいなさいと言う光秀の言葉を華麗に聞き流した蘭丸は、梵天丸を抱えて走り去っていった。その背中を、苦笑と呆れと、僅かな微笑ましさを滲ませた表情をしていた光秀に。まあまあ後でさせなさいと雪陽が言うと、彼は肩を竦めてから雪陽に断りを入れて部屋へと向かった。

と。本来なら雪陽はそんな光秀の隣で。お泊まり最後の日を、身支度する姿を何となく眺めながら。取り留めの無い話を、ほつりほつりと話す予定だったのだが。
残念ながら。雪陽を養子として引き取った酔狂な梟に、無情にも呼び出しを食らったので。現在雪陽は、長い廻廊をのったりのったりと進んでいた。

別段、嫌なわけではない。
言うほど、特に渋る理由があるわけではないのだ。
だけれどなんだか嫌な予感がするなあ、と。他人事のように胸中でぼやいてから、雪陽は。
右腕の、肘より下。形なく、雪陽の歩調に合わせてゆらりゆらりと揺らめく袖を。手持ち無沙汰に更に揺らめかせてから、養父、松永久秀のいる部屋へ入室の許可を得る言葉をかけた。

是、と返ってきた部屋の主の言葉に雪陽は、失礼します、と一言。
左手で襖を開け、軽く低頭して敷居を跨いだ。
ふわ、と良い匂いがする。桜だろうか。人より良い嗅覚が、部屋に薫る香の匂いを聞き取る。

久秀が焚いているのだろうか、と。
見やると、彼は文机の前に座って何かを書き留めていた。側には、美しい漆塗りを施した上品な硯が、黒々とした墨を作って役目を果たしている。
人並みではあるが視力にはあまり自信の無い雪陽に、この距離で彼が何を書いているのかは皆目。見えやしない。

此方へ、と松永に呼ばれ。
雪陽は、松永に指されたその側に腰を据えた。

「桜の匂いがする」
「流石は雪陽だな」

分かるかね、と松永に言われ。
雪陽は、頷いた。

松永に近付いたお陰で、更に匂いが強まった。
どうやら今は焚いていないようで。漂うこれは、残り香であるようだ。

だが、そこまで強いものではない。
部屋に焚き染めるには些か弱すぎて。正直な話、常人がぱっとこの部屋に入れば、なんかいつもより良い匂いがするなあ程度で。何の匂いかまでは、聞き取ることは出来ないだろう。


 
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