第1部

□コロシアム―前編
1ページ/7ページ




悲しみを乗り越える為に捨てなければいけなかった

心が完全に壊れてしまわぬように

心を護る為に

悲しみと絶望の果てで彼女は自ら望み

そして、願いは叶えられた



*‥*‥*‥*
―…ピチャン


―ピチャン


意識の遠くで雫が水面に落ちる音が聞こえる

ゆっくり、断続的に響く音はまるでひとつの旋律のようだった

(………ここはどこ?)

やがて目を開けたサヤの前に広がっていたのは薄暗い世界だった

どこまでも続く水だけの世界にサヤは独りきりで座り込んでいた

何故水の上にいるのか、重力の法則を無視してそこにいられるのか―

とにかく疑問だらけだった


―ピチャン…


サヤの目の前で水面に零れ落ちたひとつの雫が小さな波紋を作り
その波紋はゆっくりと広がっていく

それは幻想的な様ではあったが、誰もいない、あまりにも静か過ぎる空間はどこか冷たさを感じた



―嘘つき

ぼんやりとしていると何処からともなく声が聞こえた
鈴を鳴らしたような美しい声が波紋と重なり、空間に響く


―貴女は嘘つき


その言葉は、声はサヤの心にも響く
一体、どういう事なのだろう?とサヤは首を捻った


―貴女は本当の自分を隠し、偽りの自分を演じている


サヤはドキリとした
思っている事を見透かされた上で返事が返ってきたのと、そして…

「偽りの、私」

サヤはなぞるように口にした


―偽りの想いは、嘘だけで塗り固めた自分自身は真実には勝てない
どんなに繕っても結局最後は壊れてしまいます

貴女がキノと呼ぶ少女…

大切な人の命を奪っただけではなくその名までも奪い生き続けている

サヤ、何故貴女は本当は憎くて仕方がないのに自らを偽ってまで彼女と共にいるのですか?


凛とした声が水面に波紋を作る
波紋はどこまでも広がり
やがて闇の彼方へ消えた


「それは…」

サヤは上手く言葉に出来なかった

彼女から亡くなった兄に関する事のあらましを全て聞き、納得し、心の中で完結させたつもりだった

しかし、いつからか奥にしまっていた彼女に対する暗く汚れた気持ちが溢れてきて
どうしたらいいか分からず戸惑い、悩んだが

それでも彼女を大切に想う心は変わらない、と答えを導き出したが…



―その気持ちも都合の良い嘘
踏み込まない、踏み込ませないと言ったのは誰?

「最初はそう思った。それは本当の私を知ってほしくなかったから、でも、それじゃ何も変わらない。傷付いたとしても相手を本当に想うのなら向き合わなくちゃ」


―気付いていないのですね。
それすらも偽りだという事を

貴女の矛盾した行動、そして定まらない心が貴女自身を壊し続けているの
何故これだけ言っても分からないのですか?

貴女の本質は貴女が知らないもっと奥
今、貴女が認識している自身の心とはまた少し違うのです

サヤ…これは全て貴女の心を護る為なのですよ

貴女自身が壊れない為にも早く心を定めるべきです


優しく諭すような口調でサヤに語りかける


「嫌っ…!違う…私…、私は…」


サヤはきつく目を閉じると両手で耳を塞ぎ、その場に崩れ落ちるようにうずくまった

だが、どんなに拒もうと
それは彼女の心の中に直接入ってきた


―サヤ…どうか恐れないで
私はただ、貴女を助けたいなのです
貴女の幸せが、貴女の願いを叶える事が私の全て
だから―…





―…サヤ



―サヤ



今度は自分に語りかけている声ではない声が頭に響いた


(私を呼ぶのは誰…?)

サヤは恐る恐る目を開けた



*‥*‥*‥*
「サヤ!!」
「…!」

サヤは強い力で引き戻されるように目を覚ました

「わ…たし…?」

意識はまだはっきりとはしていないが、とりあえずベッドから身を起こす

胸が異常なくらいに収縮を繰り返す速度が早く、息が苦しい

いつの間にか流れた大量の汗が肌に張り付いてとても気持ち悪かった

深呼吸を繰り返しているうちに段々と落ち着きを取り戻し―

「キ…ノ…?」

ベッドサイドに立つキノを見上げた

「ごめん、起こして。随分とうなされていたから、心配になって…」

サヤはううん、と首を振った

「私の方こそごめんね。キノを起こしちゃった…よね?」
「ボクの事は気にしなくていいよ。悪い夢でも見たのかい?」
「…よく分からない…あんまり覚えてないから。けど…すごく怖かった」

サヤはそう言ってシーツをきつく握り締めた

朧げに覚えていただけの夢の記憶はどんどん薄れていっても、不快感だけはまだ鮮明に残っており

言葉に言い表せない、どうしようもない気持ちがサヤの中で燻っていた

そんなサヤの様子を見たキノは何も言わず、震える彼女の手にそっと自分の手を重ねた

重なり合った部分から優しい温もりがじんわりと伝わる

「キノ…」

サヤはそんなキノの気遣いが嬉しくて胸が一杯になった

どうして彼女は自分がしてほしい事を分かっているのだろう?

「…汗かいてちょっと気持ち悪いからシャワー浴びてくるね」

サヤは溢れて零れそうになる涙を堪えて目を擦りながら言った



*‥*‥*‥*
熱いシャワーを浴びて
幾分か気分もさっぱりしてきた
これで今度はぐっすり眠れるだろう

サヤはシャワーのコックをきゅっ、きゅっ、と締めた

そして、浴室の扉を開けようとした時だった


―早く
貴女が壊れない為にも早くその内に秘めた願いを…


「何…、何なの!?」

突然怪奇現象のように響く声にサヤは片耳を押さえた

聴覚ではなく胸の内―心に響くような不思議な感覚が襲う


―私はいつでも貴女の傍にいます
貴女が決意すれば貴女は幸せになれます…
それが……


「…あなたは一体誰なの?何を言ってるの?」

サヤは胸を押さえ、絞り出すように声を発した

しかし、声はもう語りかけてはくれなかった

「私の、願いは…」

サヤは俯いた

雫が頬を伝ってピチャン、と音を立てて浴室のタイルに落ちた




次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ