Short story

□カプリチオ・ワルツ
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 日曜日、9時に起こしに来てよね。なんて王子が言うもんだから日曜日も朝から練習なんて大変だねと返したら王子はそれには答えませんでした。わたしが今ここにいるのは、そういうわけなのです。さっきカーテンを開いたばかりの、窓の外はすっかり春めいてパステルカラー。眠る王子のお顔にのどやかな陽が射しています。
 おはようございまーす、と呼び鈴を鳴らすと同時にドアを開けたわたしを、倫子さんはとてもにこやかに迎え入れてくれました。ごめんねリョーマまだ寝てるのよ。はい知ってます、むしろ起こしに来いと言われました。あら、まったくあの子ったら。倫子さんは今日もすてきに朗らかです。倫子さんすてきですわたしのお母さんになってほしいです。思わずそう言ったらあらしゃれにならないかもしれないわねとやっぱり朗らかに倫子さんは言いました。お茶がおいしいなあ。
 時計は9時3分前を示しています。床に置かれたゲーム機は無造作に、けれど確固たる意思を持っているかのようにそこにいて、繋がれたコントローラーはまったく自由に自分の居場所をつくっていました。わたしはそれを侵してしまわないようにちいさくなって、王子のやすらかに眠るベッドのそばにすわっていました。寝相のあまりよくない(倫子さん談)王子にしてはめずらしく、彼はきちんと仰向けにふとんのなかに収まっています。わたしはそのまだまだあどけないながら整った顔を眺めました。
 せまくてすべらかなおでこ。今は閉じられているけれど、目尻の切れ上がった猫みたいな大きな目。生意気にとがった鼻。うすく開けられた赤いくちびる。まだ細くとがってはいない顎のライン。



 (ああ、)わたしはふいに悟りました。
 (追いつけないなあ)
 (わたしは、置いてきぼりだなあ)
 しかしそれはなにも、王子の麗しいおでこや目や鼻や口や顎がいけないのでは、ありませんでした。いけないのは、あるいは春の陽気でうららかでやわらかな、それでいて奇妙に感傷的な陽射しだったのかもしれません。王子の生まれる1年とすこし前にわたしは生まれました。でもそれがいったい、どんな意味を持つというのでしょう。ちぎれるくらいに腕を伸ばしてみても、喉がつぶれるくらいに叫んでみても、彼に届くことなどないのです。彼のこれから歩む人生を想像してみても、そこにはどうしたって、わたしの影も形も見当たらないのです。


「ねえ、なにやってんの」


 いきなり上から降ってきたその声に、わたしはほんとうにおどろきました。王子は半身を起こしてわたしを見おろしています。わたしはとても混乱しました。わたしは王子の顔を見つめていたはずなのに、王子が目覚めたことになどすこしも気づかなかったからです。


「なにひとの寝顔見て泣いてんの」


 王子は寝起きのすこし掠れた曖昧な声で、しかしはっきりと言いました。わたしはそこではじめて気がつきます。わたしの目尻、頬、あまつさえ膝までもが涙で濡れていたのです。


「おうじ、」
「なに?っていうか王子って呼ぶのいい加減にしてよね。だから、なんで泣くの」


 わたしはとほうにくれていました。


「・・・おひめさまに、なれない、から」


 王子は、は?と怪訝な顔をして言い、とても微妙な数秒間を見送りました。何かを考えているようでしたが、おもむろにベッドヘッドの目覚まし時計を手に取ったところをみると、その思案は放棄されたようでした。そして王子はいっそう大きな声ではあ?と言うと、それをわたしの前にずいと突きつけました。ふたつの針は、9時57分を指しています。


「9時に起こせって言ったじゃん」
「え、えええうそだ、わたし確かに9時3分前にここに、」
「アンタ1時間もひとの寝顔見てたわけ」
「ご、ごめん王子部活、遅刻しちゃう、どうしよ、ごごごごめんね」
「誰が部活なんて言ったの」


 え、と間抜けに声を出したきりわたしは固まりました。だって、王子の日曜日朝9時起床なんてテニス部の活動以外に何があるのか、さっぱりわからなかったのです。そんなわたしを後目に、王子はベッドから降りてすたすたとクローゼットのほうへ歩いていきました。わたしはそれでも呆けたままで、「着替えたいんだけど」という王子の声にやっと立ち上がることができました。わたしはなんとも不可思議な気持ちでしたが涙はもう、止まっていました。


「ちょっと」


 のろのろと部屋を出ていこうとするわたしを王子が呼び止めたので振り返ると、わたしの視界にはもう、王子しかいませんでした。


「王子がキスすればお姫さまになれるんでしょ」









 階下では、倫子さんがやがて起きてくる南次郎さんのために朝食を作っていました。わたしを振り向いて、にっこりと満面の笑み。


「倫子さん、」
「なあに?」
「王子今日部活じゃないんですか」
「そうみたいねえ」


 ふふふ、といかにもたのしそうに含み笑いをして、倫子さんはフライパンに水を注ぎいれました。湯気と卵の焼けるいい匂い。母親というのはつまり、幸福の具現化なのだとわたしはほとんど麻痺した思考の隅で感じました。


「だって聞いて、リョーマったらこの日のために服をぜんぶ新調、」
「母さんなにいってんの」


 階段を降りてきた王子はなんと、ジャージではなく私服をお召しでした。その麗しいお姿といったら!王子はそのままダイニングを横切って玄関のほうへと颯爽と歩いていき、わたしはそれを呆然と見送りました。ああこんな王子の隣を歩く方はどんな方なのでしょうか。そんなことを考えたように思います。そのお方に、ほんのすこし嫉妬をしたようにも思います。否、見栄を張りました。ほんとうは、とても、浅ましいほどに羨ましく思ったのです。(わたしはやっぱり、おひめさまになんて、)


「ちょっと何やってんの」
「え、何って、お見送りを」
「アンタも行くんだよ」
「・・・え、」


 王子がダイニングに引き返してきてそう言ったとき、わたしはだからすぐには言葉の意味をはかりかねました。ぐいと手を引かれてわたしはよろめきそうになりましたが王子の手は思いのほか優しくて、力の加減のされていることを知りました。それはまるで、王子さまがお姫さまの手を取るようで!あと6年もあるなんて長すぎるわね。倫子さんの難儀そうな声は、閉まるドアの向こうに吸い込まれていきました。


「お、王子?」
「アンタのせいで予定台無しなんだけど」
「え、ええええ、まさかこれって」
「それ全部言ったら家戻るから」


 わたしはあわてて口をつぐみましたが、それは王子の言葉というよりは、ほんのり紅の差した王子の耳のせいでした。





 お姫さまになれるキス。おませで横暴で傲慢で、それでもやっぱり幼くて。たといいつかはるか遠くに行ってしまうとしても。わたしの手を引くこのちいさな男の子が、わたしにとってたったひとり、王子さまなのでした。











カプリチオ・ワルツ
(ああ、目がまわりそう!)

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