長編

□私
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ネイトリバー。

ニア。

名前とは、人間が生きる極僅かな時間、それぞれの人間を区別するだけの呼称。

私を私と証明する術はどこにもありません。

私であって私ではない。


私がこの世に生まれ落ちたのは20年前。

私はどんな場所で命を授かったのでしょう。

私が最初に抱かれたのは誰なのでしょう。

私、私。

私は私の事ばかり。


いつもの部屋。

いつもの玩具。

代わり映えの無い家具の配置。

床に寝そべり見上げた天井はいつも通り白く、シミなど一切ありません。

綺麗に磨かれた床にも、チリの一つもありません。

変化の無い日常と見飽きた風景。


仕事が落ち着き、時間に余裕が出来ると私は決まって遊戯室に向かいます。

いえ、それしかすべき事がありません。

すべき事でもありませんね。

私にはそうするしか無いのです。

する事と言ってもただただ玩具と戯れるだけです。

私、玩具。

それだけです。


流石の私でも、多少の睡眠時間や食事の時間を設けなければ死にます。

当たり前の事です。

逆に言うと、極僅かでもそれらを設ければ、私は簡単には死にません。

これまでの耐性があるからです。

慣れとは怖いものです。


仕事は、私の生活の大部分を占めています。

仕事が無ければ私が私である理由が無くなります。

生き甲斐であり、生きていく唯一の術です。

私は他の生き方を知りません。

私の生活は、仕事、睡眠、食事、たまの休憩、これらの繰り返しでしかありません。

それが、私。

私と言う人間。

それが死ぬまで永遠に続くんだと、思っていたんです。

そう、信じていたんです。


私は何故こんな事を考えているのでしょうか。


これでも私には感情と言うものがあります。

喜怒哀楽全てが備わっているとは思えませんが。

今までは、無心で玩具を弄んでいるだけでした。

しかし近頃は、脳味噌が始終回転し続けています。


きっかけは、玩具にすら存在した「家族」と言うもの。


何故今更目につくのでしょう。

今まで何も感じなかったのは何故ですか。

私は何の為に、一心に、玩具と戯れていたんですか。

私、私。


私が現実に存在しているならば、私には家族と言う存在があるはずです。

しかし私はそれを知らない。

いえ、覚えていないと言うのが正しいのでしょうか。

そんな事はどうでもいいです。


私は何故こんな事を考えているのでしょうか。


時々、ぎゅうと胸が苦しくなるんです。

締め付けられたように。

その上、恐らく幼少時であろう私の、記憶のような映像が、悪夢となって脳内に再生される事があります。

それもかなり鮮明にです。


父かもしれない人間の笑顔。

母かもしれない人間の笑顔。

決まって笑っているんです。

しかしこの二人の人間の表情だけは、歪んでいます。

何故か、笑顔だというのは確信出来るんです。

おかしな話ですね。

私も、共に笑っていた気がします。

その時の感情を何と表現したら良いのか、少し前までの私なら分からなかったでしょう。

今ははっきりと分かります。

それこそが「幸せ」だったのだと。

しかしやがてそれは消えてしまいます。

両腕の痛みと共に。

根元から引き裂かれるような激しい苦痛。

言いようがない感情。

全てが無になった時、その二人の人間はどこかへ姿を消しています。


私は走りました。

どこへ向かっているのかは分かりません。

感覚の無くなった腕を一生懸命振り、走るんです。

腕が痛いです。

足が痛いです。

私は暫くして走れなくなりました。

どうして靴を履いていないんですか。

どうして周りは真っ暗なんですか。

私が居る場所は、一体どこですか。


そして次に浮かんでくるのは老婆の笑顔です。

また笑っています。

温かい羽毛に包まれたような、ぬるま湯に浸かったような感覚に襲われます。

腕の痛みも足の痛みも和らぎます。

しかし、またしてもそれはすぐに終わりを迎えます。

頭部への衝撃と共に、私は暗闇に引き戻されます。

私は走りました。

向かってくる何かから逃げています。

ガンガンと波打つ頭痛に私は何も考えられなくなっています。

無意識に、逃げるんです。

私を襲う何かから。


全身の痛みに引きずられながら、次に中年の男の笑顔が浮かんできます。

私にはもう何をする気力も体力もありません。

男の笑顔に安堵した私は、久しぶりに笑う感覚を覚えました。

しかしそれも間違いだというのはすぐに気付かされます。

胸、腹部、背中。

臓器が壊れるような、全く理解出来ない感覚が体に充満しています。

しかも今回は逃げられません。

もう、動けないんです。

私の神経はピクリとも反応しません。


痛い、痛いです。

どうしてですか。

私を苦しめるあなた方は、一体誰ですか。

私の体、動いて下さい。

痛いんですよ。

お願いです。

もうやめて下さい。

嫌です。

もう沢山です。


お父様、お母様。


あの笑顔に帰りたいです。

今はもう見えなくなってしまいましたが。

どうかもう一度、その笑顔を見せて下さい。

どこかへ行ってしまわないで下さい。

私を置いて。

いつも笑っていましたよね、私。

良い子でしたよね。

幸せな感情しか知りませんでした。

嬉しい、楽しい。

それ以外の感情など経験したことはありませんでした。

良く覚えていないのに、感覚で分かるんです。

私は身も心も壊れました。

もうこんな私は、私ではありません。

帰りたかったはずの笑顔ももう、どんなものか忘れてしまいました。

だって、見えないのですから。


これではもう、帰れませんね。


どうしてですか。

どうして壊れてしまったんですか。

私、何か失敗を犯しましたか。

教えて下さい。

誰でも良いですから。

誰でも。

もう痛いのは嫌です。

悲しいです。

悲しいです。


私は自分を犠牲にしていました。

苦しみの後に必ず幸せが待っていると。

あの笑顔に会えるのだと。

しかし、結果、しっぺ返しをくらいました。

私は間違っていました。

私には幸せを得る資格など無いという事です。

既に十分だったという事です。


そうして私は大量の涙を流すんです。

幸せだった全ての感情も一緒に、涙となって流れて行きます。

抜け殻となった私は、自分の涙の海の中に沈みます。

そして、濁った涙の最深部でこう思うんです。


幸せを求めたばかりに痛みを知ってしまいました。

こんな事なら求めなければ良かったです。

もうこんな思いはしたくありません。

痛みを伴うならば、私にはそんなもの必要ありません。


幸せなど、要りません。


そんな場面を経験しながらも、私は死んではいません。

自分でも不思議な感覚です。

どこからか最後に現れるのは、細身の青年です。

顔は全く見えません、シルエットだけです。

灰のようにボロボロになりながら、一つの結論に達した私を、遠くでじっと佇み見ているようです。

私は沈んだまま動けません。

何か私に向かって喋っているんでしょうか、ジェスチャーのようなものが見えます。

そしてそのうち、水面越しにユラユラと揺れるその青年の手が、段々とこちらへ伸びてくる気がします。

私はついに死ぬんだと思いました。

迎えが来たのだと。


しかし、違ったんです。


そして毎回その後、私は正気に戻ります。

これを経験するのは大抵、睡眠時が多いです。

起床時には決まって尋常でない汗をかいています。


つい最近になるまで、これを夢に見ると、全てを起床と共に忘れてしまっていました。

ただただ、気持ちの悪い感覚だけが体中に居座るんです。

ハウスに居た頃は、極稀に講義中に動けなくなることがありました。

実際の記憶のような、パラレルワールドに居るような、気持ちの悪い世界に一瞬で連れて行かれます。

何が真実で、何が幻影の世界なのか、寧ろ真実など一つもないような暗い闇の空間です。

私の中で何が起こっているのか、私ですら理解出来ません。

正気に戻った時の、周りの人間の、私を見る目は忘れ難いです。

あまりに異常な光景で、さぞ恐ろしかったでしょう。

瞳孔を開いたまま、微動だにしないのですから。

後に私は医務室の人間に、その時の自分の状態をそう聞きました。


ここまで鮮明に悪夢の詳細を思い起こせるようになったのは、本当に突然の事でした。

目覚めと共に忘れてしまっていたものが、いつでも容易に思い出せる程濃く脳に焼き付いているんです。

悪夢を見ている最中も、今までのように私が映像と記憶に入り込むのではなく、異世界から客観的に眺めている形になりました。

これまでとは全く別物として見ている事になります。

そして一つ一つが立体的に、具現化されて見えるんです。

傷だらけの裸足、流れ出る血液の色、脈打ち浮き立つ鼓動さえも。

まるで現実に経験した、過去の記憶かのように。


これだけ鮮明でも、やはりどうしても霞むのは、父かもしれない人間と、母かもしれない人間の笑顔です。

どうやっても、見えません。

太陽の光か雲か、陽炎でしょうか。

ぼやけてしまって。

何かが私の視界に入り込んで、頑なに邪魔をするんです。


ハウス以前の記憶は、このバーチャルな異世界でしか見出せません。

しかしまだ私は、この悪夢が私の真の過去の出来事だとは思っていません。

半信半疑です。

有り得ないと言う気持ちと、そうだろうと言う気持ち、そしてそう思いたくない気持ちが存在し、ぶつかっています。

恐らく何かトラウマとなってしまった出来事が、モンスターが、悪夢の中の人間に憑依しているのだと思っています。

あの二人の人間は本当に、私の両親なんですか。

見えないと言う事は、一体何を意味しているんですか。


あの手が、私を異世界から連れ出してくれたんでしょうか。

過去の記憶から、未熟な私を引き離す為に。

ハウスに居た頃の私ならば、ここまで冷静に分析出来ませんでした。


私は何故こんな事を考えているのでしょうか。


私は今までもこれからも、仕事だけをし続けて生きていくはずでした。

そのつもりでした。

何も変わりません。

変化を求めていません。

何も感じません。

それが、私。


私は、私が壊れてしまうのが一番怖いです。

何も不便はしていません。

困っていません。

幸せではありませんが不幸でもありません。

私は、変わりたくない。


ああ、余計です。

不必要です。

こんな考えは排除しなければなりません。

何も求めず固執せず現状のまま、それが私のあるべき姿です。


私は時間を持て余す事が割と好きでした。

無心で玩具を弄んでいれば良いんですから。

何も考えず何もせず。

しかし今となっては嫌いです。

寝てもいないのに、悪夢が私の頭蓋ごと侵食します。

もう、やめて下さい。

私の居場所はどこですか。


まさか世界で私一人だけが、こんな思いをしているとは思っていません。

人間皆一人です。

孤独な生き物です。


過去の記憶も悪夢も蘇らず、何も無かった私にも、私の心を埋めてくれた存在がかつてはありました。

自分と同じものを感じました。

逆にまるで違うのではないかという新鮮味を覚えたりもしました。

私が心を許したと言える唯一の存在でした。

しかし、やはり彼も消えてしまいました。

今思うと、悪夢の中の、両親かもしれない二人の人間と同じです。

彼が消えた時、私は壊れませんでした。

当時はそんな自分を特に疑問には思いませんでした。

しかし悪夢が記憶となって存在する今なら分かります。

以前にも経験していたからなのでは、と。

大きな二つの穴がトラウマとなり、生命の危機に瀕しながらもそれを乗り越え、また一つの新たな穴が開き。

不幸を不幸だと思わない。

幸せは得られない。

失うもの。


だから私は何も求めない。


本当に、私は何故こんな事を考えているのでしょうか。

いい加減にやめましょう。

この時間も仕事の合間です。

少し余裕が出来ただけです。


好きな時間が嫌いな時間へ変わり、私はこれからどうすればいいのでしょう。

頭蓋の侵食が肢体へ渡り、指先足先の全てを飲み込んだ後、私はどうなるのでしょう。

私は永遠に、考え続けなければいけないのですか。

お父様お母様。

メロ。

私の特別な存在は、いつだって、私を離れて行くんです。

玩具にすら存在する家族。

私には、いません。


私、私。

私はいつも一人きり。

私は私の事ばかり。





END

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