・・金黒・・
□●愛シテ●Last-contact
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アイツは出て行った。
もう、此処には居ない。
もう、居ない。
アイツが。
居ないんだ。
ただ何も出来ずに立ち尽くしていた自分。
この体で動いている箇所があるなら、髪から滴る水滴くらいで。
時折落ちる粒が、床に点々とシミを作っていく。
土方は力無い表情で、部屋の中をゆっくりと見回した。
テーブルの灰皿は綺麗に片付けられていて、一本の吸い殻も無い。
キッチンには洗い物なんか無くて、全てが乾燥棚に仕舞われている。
ベットはまるで新品のように綺麗に形取られていて、乱れ一つ無い。
――アイツは。
――本当に此処に居たのか?
おぼつかない足取りで土方は部屋の中を歩く。
風呂場を開け、キッチンを眺めて、部屋の中全てに視線を送った。
此処には。
アイツが生活していた『証拠』が何も無い。
アイツが使っていた歯ブラシは、いつの間にか消えていた。
アイツが使っていたマグカップも、ただそれはずっと此処にあったもので棚に仕舞われてしまえばただの景色だ。
一緒に吸っていたはずの煙草も、吸い殻さえなきゃ自分の煙草がただ置いてあるだけ。
冷蔵庫の中にはいつものビールと、ミツバがくれた差し入れだけだ。
――アイツは。
――此処に、住んでいなかった。
居候という名前は、もう少し図々しいものだと思っていた。
勝手に物を使われたり、勝手に物が増えたり。
自分の空間が侵食されていくような存在なんだと思っていた。
なのにアイツは。
何も残してはいかなかった。
『あー箸とか要らねぇよ。俺、割りばしのが好きなんだよね』
『暇潰し?オイオイ、家政婦なめんなよ?家事ってのはやろうと思えば終わりが無ぇ仕事なんだぜ』
アイツがここに住んでいた生活臭みたいなのが何一つとしてない。
――酷い、男だ。
何も残してはくれなかった。
物的証拠を残してくれたなら、それを棄てる事でケジメがつけられたのに。
何か残してくれたなら、それを棄てる事で気持ちの整理がつけられたのに。
何も残して、くれなかった。
――酷い、男だ。
なのに、記憶には。
こんなに深く根付いてしまっている。
この煙草を口にする度に。
このベットで眠る度に。
この部屋で食事をする度に。
しつこい残像が自分の脳裏に焼き付いているから、いつでも思い出してしまう。
いつでも、思ってしまう。
アイツが居た、時間を。
なんて酷い男だろう。
『ごめん』
『ありがとう』
そんな言葉、欲しくない。
『好きだ』
『愛してる』
なんでそんな事を言うんだ。
『さよなら』
今、此処に残っているのは。
記憶の中のお前だけなのに。
もう、返事も返せない。
もう、殴る事も出来ない。
抱き締めてやる事も。
もう何も出来ないのに。
こんなに俺の中を侵している。
なんて、酷い男だ。
俺に、忘れろと言うのか?
お前を、見捨てろと言うのか?
だったら、何か一つくらい残していけよ。
お前が俺と此処に居た証を。
何か一つで、いいから。
じゃないと、何度でも記憶がお前を呼び覚ます。
『さよなら』
そう言っていたお前を。
引き留めたくて仕方ない衝動にかられる夢想を。
お前が、まだ此処に居るような錯覚を。
取り返しがつかない現実から目を背けて。
夢を見ていたくなってしまう。
『愛してる』
なんて、酷い男だ。
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