Present
□小さな幸せ
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「あぁ〜っ!」
すぐ近くで、小さな子供が声を上げたのが聞こえた。
それに気付き、私は思わずぐつぐつと煮込んでいたビーフシチューから視線を変え、声のした方を見遣った。
キッチンからでもよく見える、そのリビングに居たのは…
ソファに座って、真剣そうな面持ちで対峙している二人だった。
一人は、成人した男性。
すらっとした長身の体躯に、切れ長の目が印象的である、端正な顔立ちをした男性だ。
そしてもう一人は…
まだ、片手で指を折って数える程しか年を重ねていない…小さな小さな、少女。
…声を上げた本人である。
「なんでまた、まけたの〜!?」
再び、大きな声で悔しそうに声を上げる。
…それだけで、当事者ではない私にも何が起きたのか分かった。
「残念だったな」
「どうして…?だってじゅん、“ふるはうす”だったのにぃ…!」
そう呟く彼女の名前は…
秋山…純。純粋の純、でじゅんと読む。
そしてその前に居座る、たった今彼女に勝利し会心の笑みを浮かべる成人男性の名は…秋山深一。
私…秋山直の夫であり、主人であり…
…その少女の父親でもある。
「だから言っただろ?…お父さんには純のカードが見えてるんだって」
彼の手元には五枚のカードが並べられ、それはポーカーで言うフォーカードを表しているものだった。
…ここまで言えば、もう分かるだろう。
この二人、母親である私が夕食を作っている最中にポーカーをしていたらしい。
そして娘は父親に負け、敗北を悔しんでいたのだろう。
…ちなみにこの少女、まだ幼稚園に通っているという非常に幼い少女である。…しかし。
既に父親からポーカーのルールを教わって理解するというその頭脳明晰さ、更には果敢にも父親に挑もうとする姿勢は…
…間違いなく、その父親譲りである。
勿論、ぱっちりとした大きな瞳や笑うと可愛らしい笑顔は、母親の私に非常によく似ている。
そして、優雅な手つきでトランプを操る父親に、その少女は頬を膨らませた。
「パパのいじわる!」
べーだ、と言って彼女は持っていたトランプを床に投げつけた。
「いいもん!ママにいいつけちゃうんだからね!」
そう言って、彼女はソファからぴょんっと飛び下りると私が居るキッチンまでやって来た。
「ママ!!」
「あらどうしたの?…純」
パタパタと駆け寄って飛びついて来た我が子を抱き留め、少女の言い分を聞こうとする。
…とは言え、それは容易に想像がついた。
「ママきーて!…パパったら、じゅんにいじわるするんだよ!」
あらあら…と私は彼女を抱きかかえた。
よしよし、と頭を撫でながら、リビングまで連れて行く。
…そこには、愉しそうににやにやと笑う彼の姿があった。
「もう…子供相手に、本気にならないで下さい」
「…本気になんてなってない」
苦笑しながらそう呟く彼に、私は抱っこした少女と同様、頬を膨らませた。
「…深一さんの手加減は子供にとっては手加減じゃないんですよ?
全くもう…大人気ないんですから」
「おとなげないんですから!」
ねー、と二人で言い合う。
私が味方につき援護してくれたのが嬉しかったのか、純は一気にご機嫌になった。
「大体、何でこんな小さな子供にポーカーなんて教えてるんですか…
…純はまだ幼稚園児なんですよ?」
「…トランプをいじってたら、教えてくれと言って来たのは純の方だ」
妻と娘から責め立てられた父親は、苦い顔で僅かに反撃を試みる。
「それに勝負しようと言ってくるのはいつも純の方からなんだが」
「だってじゅん、パパにまだいっかいもかてないんだもん!
いっかいくらいまけてくれてもいーのに…パパのいじわる!」
…この父親は、相手が娘であろうが誰だろうが、勝負事に関しては一切譲らない。
はぁ、と溜め息を吐く姿は…呆れているようで楽しんでいるような。
「…純は覚えが早い。それにカードの並びに注目するところなんかは中々だ。だが致命的なのは…
……俺の言う事をそっくりそのまま信じる」
うっと言葉を詰まらせたのは、何も娘一人だけではなかった。
…そう。
この子は確かに聡明で、賢い子ではあるのだが…
人の言うことを何でも信じてしまうという、特徴があった。
そしてそれは、自分を抱き上げる…
母親である私と、全く同じ性質。
「一体、誰に似たんだろうなぁ…?」
…私です、と心の中で不服ながらも認める。
声には出していないのに、目の前の夫はその声が聞こえたかのようににやりと笑っていた。
案の定、私と彼の血を引く抱きかかえられた少女は、きょとんと首を傾げた。
「え…?もしかして、ママもじゅんみたいに、パパのいうことすぐしんじちゃうの?」
「パパだけじゃない。知らない人の言う事も、全部信じるんだ…ママは」
「ママ、そうなんだ」
余りにも無邪気過ぎる言葉に、私は何も答えられなくなってしまった。
「…じゃあ、じゅんといっしょだね」
にこにこと微笑んで嬉しそうな少女を横目に、目の前の父親はますます意地悪く笑う。
…先程の仕返しだろうか。
「安心しろ、純。…ママの方が純よりももっとひどい。
何せ…馬鹿がつく程の正直者だからな」
「そうなの、ママ?」
こちらを見遣るその少女に、私は何と答えてやれば良いのか分からず困り果ててしまった。
思わず、苦笑を浮かべ…やっとのことで思いついた抗議を口にする。
「…純、パパは嘘吐きなの。だからパパの言う事は信じちゃだめよ?」
「そうなの、パパ?」
今度は父親の方へ向き直り、先程と全く同じ様に問い返す。
当の父親は言葉に詰まった。
「…だって、さっきも純はパパの嘘に騙されたんでしょう?」
「うん、あのね、パパったら「俺のカードは弱くしたから、純が勝てる」って言ったの。
それなのに、じゅんよりも上のカードだったんだよ!」
それは…確かにゲーム上においては父親を信じすぎなのかもしれない、という言葉を飲み込む。
「そうでしょう?
…パパはね、自分が勝つ為に純に嘘を吐いたのよ」
「うわぁ、パパひどーい」
娘からキッと自分を睨み付けられ、思わずたじろぐ父親の姿を私は見逃さなかった。
すかさず、更に追い討ちをかける。
「ねぇ純。嘘吐きなパパと正直な私。
…純はどっちが好き?」
にっこりと微笑んでそう尋ねると、目の前の少女もにっこりとした、私と全く同様の笑みを浮かべた。
「ママー!!」
…くすくすと笑って、私は夫の姿を尻目に見遣る。
「ですって、深一さん」
「そうなのか?…純」
躊躇なく母親を選んだ娘に対して、父親は少し落胆したらしい。
この父親は普段でこそ娘に様々な意地の悪い嘘を吐くものの。
本当は、この愛らしく稚い小さな娘を…溺愛しているのだ。
それは私がこの子を授かった時からもう、ずっと。
「うーん…」
父親に問われ、娘は戸惑ってしまったらしい。
…この少女もまた、いつもいつも父親に苛められ、その度に母親である私に泣き付いて来る。
しかし、何だかんだ言って毎晩その意地悪な父親に腕枕をして貰わないと眠れない程…父親のことが大好きなのだ。
…それは彼と永遠を誓った、私の彼に対する想いとよく似ている。
「じゅん、ママのことはやさしいからだいすきだけど…」
「だけど?」
彼と全く同じタイミングで、尋ね返す。
…すると少女は、にこにこと笑って宣言した。
「じゅんはパパとけっこんするの!!」
これには、私は耐え切れなくて思わず笑いを零してしまった。
対する父親も、それを聞いて顔が綻んでいる。
…あの意地悪い微笑みではない、優しい笑みを浮かべて。
「純…おいで」
ソファに座って手を伸ばすと、少女はうん!と頷き、私の腕から彼の元へと降り立った。
そして、ぴょんと父親の膝の上に座る。
「じゅん、やっぱりパパだぁーいすき!」
「…そうか」
父親はそれだけ言って、嬉しそうに我が子を抱き締めた。
…お父さんも純が大好きだ、という言葉が私に聞こえたのは、幻聴だったろうか。
「あら…やっぱり、純はママよりもパパが好きなのね?」
「もちろん、ママもだぁーいすきだよ!」
これには、私も思わずにっこりとしてしまう。
…お腹を痛めて産んだ子に、こう言われて嬉しくない母親が居る筈ないのだから。
「じゃあ、そろそろ夕食にしましょう」
「はぁーい」
父親は娘を膝から抱き上げると、ダイニングまで連れて行く。
私は今日のメニューであるビーフシチューをよそいながら…願っていた。
…嘘吐きと馬鹿正直の間から生まれた子。
彼女は…きっと、この世で唯一無二の存在になるだろう。
そして…
彼女と…その嘘吐きな父親と、馬鹿正直な母親。
私達三人の、小さな小さな、けれど確かな幸せが…
どうかどうか、これからもずっと…続きますように、と。
→あとがき(という名の謝罪2)