Original
□April fool
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4月1日―
それは、一年で一度きり。
…嘘を吐く事を許された日―
*****
…始めは、ほんのささいな悪戯からだった。
「…別れよう」
目の前の彼女にそう言い放つ。
瞬間、彼女はガシャンと音を立てて持っていたカップを床に落とした。
「え…?」
驚愕としてそう呟く彼女は、一体何をとち狂った、とでも言わんばかりにこちらを見遣る。
落としたカップの事など、微塵も気にならないらしい。
…この時点で、俺はすでに笑いを堪えるのが必死だった。
だがしかし、相手には真面目極まりない表情で続ける。
「…聞こえなかったか。
別れよう、と言ったんだ」
冷徹な響きを孕んだ口調でそう呟くと、彼女は目を潤ませた。
「どうして…ですか…?
私…何か、秋山さんを怒らせて…」
「違う。…そうじゃない」
彼女の目には涙が溜まっていた。
それを流さんようにと、必死なのだろう…きゅっと、唇を噛み締めている。
「なら、どうして…!」
「忘れたのか?…俺は前科者なんだぞ」
そう呟くと、彼女はぶんぶんと首を振った。
「そんなの、私は全然気にしません…!」
「気にするとかしないとか、そういう問題じゃない。
俺が前科者であるという事実は、一生俺に纏わりつく。
それは…君も、同じだ」
吐き捨てる様にそう言うと、彼女はやはり首を振る。
このまま説得しても無駄だと悟ったので、俺は部屋を出る事にした。
…勿論、最後にはきちんと嘘だと言ってやるつもりだ。
「…別れたく、ありません」
ドアノブに手をかけたところで、彼女はそう呟いた。
…それが嘘だとも知らずに。
「私…私、秋山さんと別れたくないんです…!
どうして…だって秋山さん、ずっと傍に居てくれる筈じゃなかったんですか…?
今まで私を好きだって言ってくれた言葉は…あれは全部、全部嘘だったんですか…!」
…彼女は泣いていた。
振り返らなくても、分かる。
言葉の最中に、嗚咽が混ざっていたからだ。
「愛してくれなくてもいいですから…
せめて…せめて傍に居させて下さい…」
「…直」
これ以上、彼女を欺くのは流石に罪悪感に苛まれた。
ドアの前から踵を返し、泣き崩れる彼女の前へと近付いた。
そして…そっと、抱き締める。
「…嘘なんだ」
耳元で囁くと、彼女は嗚咽を止め、こちらを見上げた。
「え…?」
「だから、嘘だ…全部。
今日…何日か、分かってないのか…?」
ふと、彼女は壁にかけられたカレンダーを見遣った。
…まだ3月のまま。
それに気付き…はっとした。
「エイプリルフール…!」
「そうだ。やっと気付いたか?」
俺は薄く笑った。
きっと彼女はにっこりと微笑んで、「もう、秋山さんの意地悪…!」なんて言うのだと思っていた。
…だがしかし。
「秋山さんの馬鹿!!」
刹那、バシッという甲高い音が部屋中に響き渡るのと同時に、頬に鋭い痛みが走った。
…彼女が俺をぶったのだ。
「直…?」
咄嗟の事に、思考が付いていけない。
そう呟くのがやっとだった。
…見ると、彼女は先程よりも比べものにならないくらい、泣いていた。
「秋山さんの馬鹿…!
なんで、なんでそんな嘘吐くんですか…!
私、ほんとに…本気で、秋山さんが私と別れようとしたんだって…
そう、思ったのに…!」
そう言われ、初めて事の重大さに気付いた。
…自分は、絶対に吐いてはならない嘘を吐いてしまったのだと。
その瞬間、反射的に再度彼女を抱き締めた。
「悪かった…!」
…そんなに、純粋に信じ込んでしまうとは思っていなくて。
そこまで、俺の言葉を信じきっているとは思わなくて。
…だから。
君を…
…傷付けた。
「悪かった、直…
全部嘘だ…別れたいなんて思ってないから…」
何度も何度も、彼女に詫びる。
ぎゅっと抱き締め、頭を撫でてやるとより一層しがみついてくる。
…この正直者は、本当に本当に俺の言うことを微塵も疑っていないのだと、思い知らされた。
「秋山さん…秋山さん…!お願いですから…
そんな間単に、別れるなんて言わないで下さい…!」
涙を零しながら、彼女は何度も…請い願う。
「私には…秋山さんが、必要なんです…!」
衝動的に、彼女に口付けた…深く深く。
彼女は何の抵抗もせず、むしろ積極的に舌を絡め合った。
…まるで、俺という存在を確かめるかの様に。
…時が経つのも忘れ、二人で何度も口付けを交わし合った。
*****
「何だか…すみませんでした」
ようやく泣き止んだらしい彼女は、そう呟いた。
「…どうして君が謝る」
「だって…私、あんな風に取り乱しちゃって…
その…秋山さんのこと、ぶっちゃいましたし…
それに今日はエイプリルフールなら、別に嘘吐いてもいいのに…」
ごめんなさい、と彼女は小さく苦笑してみせた。
そんな態度ですらも、愛しい。
「謝らなくてはいけないのは俺の方だ…つまらない嘘で、君を傷付けた。
…本当に、悪かったと持ってる」
頭を垂れると、彼女はふるふると首を振った。
「いいんです…だって、考えてみればすぐ分かる事だったのに。
…秋山さんにだって私が必要だってこと、私分かってますから」
にっこりと微笑むその姿は、いつもよりも少しだけ小悪魔的だった。
「…流石だな」
「あ、今騙されましたね?」
彼女に言われ、何のことか分からず思わず、は?と聞き返してしまった。
にこにこと浮かべる笑みは、やはりどこか小悪魔の様だ。
「私、分かってなんていません。
もしかして、秋山さんにとって私なんて全然必要ない存在なのかなって…
そんなこと、いっつも思ってますから」
思わず溜め息を吐いた。
「…中々、言うようになったな」
「今日はエイプリルフールですから」
にっこりとした微笑みを見て、ようやく分かった。
…彼女のささやかな復讐だったのだ。
「エイプリルフールか…」
呟くと、彼女はするりと俺の首に両腕を巻きつけてきた。
「ねぇ、秋山さん」
「…ん?」
俺も彼女の細いウエストに手を回すと、そう聞き返した。
「私…ほんとはすごく不安なんです。
毎日毎日…いつか秋山さんに、見捨てられちゃうんじゃないかって…
今日みたいに、あっさり別れようなんて言われるんじゃないかって…
そんなことばっかり考えてる…」
…あぁ、そうか。
だからさっき、あんな風に号泣したのか。
合点がいって、再び彼女の言葉に耳を傾ける。
「だから…お願いです。
そうならないように…いつまでも、いつまでも…
私のこと……愛していて下さいね」
くす、と笑って返事の代わりに口付けた。
唇を離すと、彼女の目を見つめて呟いた。
「約束する。…ずっとずっと、君を愛し続けるって」
言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
そして再び、深いキスを交わし合う。
それは、嘘を吐いてもいい日に言った…
―…真実の、誓い。