蒼海

□幸せというもの
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海の香りが混じった風がアリシアの頬を撫で、金色の長い髪を揺らす。頭上を眺めると緑の葉が揺れている。これを葉というものだと教えてくれたのは彼。今自分が寄りかかっているものが樹だと教えてくれたのも彼。様々な物の名前を教えてもらった。もう人間になって半年。それだけの時間がもうすでに過ぎていた。


その彼は今、向こうで剣を身軽に振り、他の兵士を圧倒している。あんな重いものをあんなに軽々と振っている彼がアリシアにはとても勇ましく感じられた。



暖かい風が吹き抜ける。少し潮の香りが混じっているかもしれない。気持ちのいい澄んだ空気。周りを取り巻く緑。人間の世界とはこんなに素晴らしい。

「ねえ、アリシアちゃん。」

アリシアの隣に座ってきたのは兵士姿のアイリーンである。彼女の剣術は名人並みだ。クラウドの次に強いのだろう。周りからは『性別を超えた剣術』とまで呼ばれている。他の兵士たちを男並みに一気に蹴散らしてしまう。

「どうしたの?」

楽しそうに笑って彼女はアリシアに身体を寄せる。

「ねえ、アリシアちゃんて、ずっとクラウドのこと見てるのね。」

「えっ…そう?」

「そうよ。ずっと見てるじゃないの。ね、もしかしてクラウドのこと好き?」

きょとんとしてアリシアはアイリーンを見つめる。同じような質問を姉にもされたことをふと思い出した。

「そうよね、言えないわよね〜。だってアリシアちゃんは王子様のご寵姫だもの、クラウドが好きだなんていったら、王族への裏切りになっちゃうものね。」

そう言えばそうだ、と項垂れてしまう。自分は王子を愛さなければならない存在。王子に愛されれば彼は喜んでくれる。王子が望むことこそが、彼が望むことなのだから。

あの王妃との事件以来、王妃に会えば何されるか分からない、という理由でずっとクラウドが付き添ってくれていた。クラウド自身に用事があるときは今のように一緒に連れてきてもらったり、アイリーンを傍に置いてくれたりしている。王子は王妃に『二度とあんな娘に近づくな』という命令を下されたらしく、もう1か月半近く会っていない。

「でも私ね、」

とアイリーンは向こうで兵士に剣術を教えているクラウドを眺めながら口を開いた。

「クラウドはあなたに会ってから変わったと思うの。」

「変わった?」

「そう。私はクラウドのことは小さいころから見てきた。一緒に剣術もやった仲だしね。小さいころからお父さんの跡を継ぐために私の父親から剣を習ってたのよ。泣きべそで、すぐに年上の私にコテンパンにされて…終わる時間になるとお母さんが迎えにくるんだけど、すぐに抱きついて泣いちゃうの。お母さん大好きっ子でね、いっつも甘えてた。お母さんが命ってくらい。」

「クラウドが?泣くの?」

「そう。」

アイリーンはケラケラと笑う。

「今じゃ絶対に泣かないけど、もう見てて面白いくらい。あの灰色の目から涙をボロボロ落とすの。だから余計いじめちゃった。あの顔、アリシアちゃんにも見せてあげたかったわ〜!」

彼も泣くことなんてあったのか、とアリシアは驚いたように向こうの軽い身のこなしのクラウドを見やった。

「でもね、そのお母さんが急に病気で亡くなったのよ。彼がまだ10歳くらいの頃だったかしら。もともと身体が弱かったのもあって、少し重い病気にかかって亡くなっちゃったの。それで…あの子は笑わなくなったし、泣かなくなった。」

「笑わなくなった…?でも、ほら、あんなに楽しそうに稽古して…」

アリシアの視線の先には楽しそうに稽古をつける彼の姿がある。いつもの笑顔とは違う、とても活き活きとした表情。きっとあの表情こそが、彼の本当の楽しい、という表情なのだと思う。

「あんな風に笑うようになったのはあなたが来てからよ。まあ、剣だけがあの子の存在を意味するようなものだったから、稽古の時は魂が宿ったような顔をしてたわ。でもそれ以外はほとんどぼうっと海を見てた。じっとあの海だけを見てるの。」

「海を?」

「ほら、立ってここからあっちの方を眺めると海が見えるでしょ?」

彼女は北の方を指差す。

「クラウドはあっちばかり見てるの。どうしてって聞くと、人魚を探してるんだっていうのよ。バカみたいな話よ。これにはみんな呆れちゃって、王子様も私のお父さんも頭を抱えたわ。まあそれでも成長して正式な王宮付きの騎士になると、仕事中に海を眺めることはなくなったけれど、朝と夜はよく海を見に外に出てたみたい。でもあの子が心から笑うことはなかったかな。」

彼にもそんな時期があったのか、とアリシアは思う。

「でも、あなたが来てから彼は徐々に変わったと思う。あなたには本当に優しく笑うわ。あんな顔、私に見せたことなかったもの。」

アイリーンが伸びをして空を見上げる。青い、雲一つない空。

「…私ね、思うの。」

「…?」

「クラウドはあなたのことが本当に好きよ。」

その言葉に鼓動が大きく鳴り響いた。アリシアはまじまじとアイリーンを見つめてしまう。

「そんなびっくりした顔しないで。見てればわかるわ。クラウドはね、あなたが好きだから、あなたを王子様のお妃にしようとしてるのよ。」

「え…」

「だってそうすれば、クラウドは一生あなたを守れるでしょう?ほら、彼は王宮付き騎士で、王族を守ることが役目だから。あなたがお妃になれば傍で守れるもの。…でももし、普通の寵姫になってしまえば、いつ王子様に捨てられてもおかしくない存在になる。それではずっと守ることはできない。だから、あの子はあなたを王子様のお妃にしようとあんなに躍起になってるんだわ。」

驚愕と嬉しさが一緒に渦を巻いているような感覚に襲われる。彼が自分のことをそんな風に思ってくれているなら、涙が出るほど嬉しい。しかし、そうであるからこそ王子の妃にしようと躍起になっている。それにはどうしようもない想いが生まれてしまう。

「きっと、クラウドはあなたに自分の想いを口にすることはないと思う。あの子は、騎士というお父さんから受け継いだ役目を自分の生きる意味にしてるから。それを壊すようなことは絶対にしない。それは生まれてきた意味を壊すことに繋がるから。」

アリシアは膝の上の自分の手に何となく目をやる。わかっている。本当に彼は騎士という役目を命のように大事にしているのだ。

隣のアイリーンが静かに笑う。

「でも、たとえ彼が想いを伝えることが無かったとしても、アリシアちゃんは彼の傍にいてあげて。きっとそうすれば彼はずっと笑ってるから。私はね、アリシアちゃんはクラウドの笑顔そのものなんだって感じるの。」

「そのもの…?」

「そう。あなたがいれば彼は笑うわ。きっと、ずっと笑ってる。ね、だから傍にいてあげてね。」

そこまで言うとアイリーンは立ち上がって自分の剣を右手で握った。そして向こうの兵士集団に向かって叫ぶ。

「誰か私の相手になって!そこにいる全員でもいいわ!早く前に出て!思いっきりかかってきなさい!」

力強い声。しかし、その声はアリシアの耳の前でかき消されてしまう。アリシアは茫然と向こうの彼を見やった。

なんとも言えない感情。どうしたらいいか分からない想い。

彼も自分のことを想ってくれているのなら、死んでもいい。この短い限られた命でいい。王子ではなく彼を愛し、彼に愛されたい。そう思ってしまう。しかし、それを彼は望んではいないのだ。



潮風が、アリシアの金髪を巻き込んで流れていく。その風に彼の黒髪もなびく。

あと半年。

半年ですべては終わってしまう。

アリシアは切なくて静かに目を伏せた。
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