蒼海
□信じる人
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結局クラウドは眠れないまま、その夜は終わってしまった。
今日もアリシアの歩く練習に付き合わなければならないのだが、会う気がしない。それより彼女が会ってくれないかもしれない。
アイリーンにでも頼もうかと思った時、王子が向こうからやってくるのが見えた。珍しく目の下にクマが出来ている。
「王子、おはようございます。」
「ああ、うん…。」
「いかがいたしました?」
「…昨日、」
昨日、という言葉にドキリとしてしまう。
「彼女に泣かれちまって、結局何もしないまま終わった。せっかくお前に連れてきてもらったのにな。」
階段の手すりに頬杖をついて彼は言う。そう言われた瞬間、なにか胸につっかえていたものが一気に下に流れた感じがした。
彼女は無事なのだ。
無事。何故かそんな言葉が出てきてしまう。
「まさか、王子に抱かれたくない女がいるなんてなあ。こっちが驚きすぎて、まったく眠れなかった。」
彼女は泣いて嫌がったのか。そう思うと胸が張り裂けそうな想いが走った。今はどうしているのだろう。心配でたまらなくなる。
王子が動揺するクラウドを見やって静かに呟いた。
「…彼女はお前に惚れてるよ、たぶん。」
「は…?」
「きっと命の恩人のお前に一時的に惚れてるんだよ。」
一時的という言葉を強調して、ぶっきら棒に彼は言う。まるで面白くない、と言っているようだった。
「お前に惚れてるから王子の俺を拒絶したんだ。」
何を言われているのか分からない。目を見開いて主を見つめてしまう。王子を拒絶したなど前代未聞なのだ。
「でもな、クラウド、俺は諦めないからな。絶対彼女は俺の方を向くようになる。きっと今だけだ。」
驚いて言葉が出てこない。
「…行ってやればいいだろ。今だけは許してやるから。このまま彼女との関係がぎくしゃくしたら俺だって色々とやりにくい。…やっぱり出逢って3週間じゃきつかったか。あれじゃあ、しばらく無理だな。」
首の後ろかきながら彼は去っていく。そこに一人、騎士だけが茫然と残されてしまう。
―彼女はお前に惚れてるよ
何度も響くのは王子の言葉。何度も何度も反復して聞こえる。
そんなことありえない。
あっては困る。
彼女は王子の寵姫なのだ。寵姫が王子を嫌がってどうする。
そんなことを考えながらも彼女のもとへ行った方がいいのかと悩んでしまう。昨夜は彼女に騙したも同然のことをしたのだ。安心してくださいと言って別れたのだから。
王子を敬愛する心と彼女への複雑な感情がクラウドの中で乱れた。
そんな時、廊下をアイリーンが他のメイドと共に歩いてきた。アリシアの部屋がある方の廊下である。
「あ、クラウド。」
クラウドに気づくと彼女は駆け寄ってきた。
「アリシアちゃんの様子がおかしいのよ。ずっと黙ったままなの。顔も会わせてくれないし…。私、何かやっちゃったかしら。ねえ、何か知らない?」
「いや、何も…」
「そう…。まあ、あんた行ってあげなさいよ。あの子、あんたのこと気に入ってるみたいだし、私はこれから王妃様の所へ行かなくちゃいけないから。」
「…ああ、わかった。」
アイリーンはよろしく、と言って去っていく。わかったとは言ったものの、やはり気が引けた。どんな顔で彼女に会えばいいのだろう。
心の整理がつかないまま、クラウドは彼女の部屋に向かって重い足を動かし始めた。