蒼海
□知らない姫君
2ページ/6ページ
「…い、おい、クラウド。」
声が聞こえてハッとする。馬で前を行っていたはずの王子が隣にいた。顔をしかめている。
血や泥で汚れてしまった自分とは違う、汚れがない顔。人を殺したことのない手。命を懸けて、守ってきた自分の敬愛する主人がそこにいた。
「おまえ、…変わったな。」
「変わった…?」
「ああ。変わった。」
気に入らないというように彼は顔を背ける。
「…まあ、いいけど。」
そう言って彼は前を向く。どうしたのだろうとクラウドは彼を見つめた。
「何かご不満でもありましたでしょうか…?」
「ない。」
そっけない態度。戦っている時もそうだった。いつもと様子が違った。どんな時でも意気揚々としているのに、この戦い続けた1か月、何かが気に食わないというような様子が続いている。隣国との関係のことだろうか。
確かに戦争は決着がつかないまま終わってしまった。近い未来、また争いが始まるだろう。きっとこれから何度も何度も続いていく。それを、王子も悩んでいるのだろうか。
「この度は、私の作戦が及ばず、勝利を勝ち取ることができませんでした。申し訳ありません。」
クラウドは静かに謝った。参謀である自分がもう少し余裕をもった作戦を練っていれば、勝利は確実だっただろう。そうなれば王子の精神的な負担も軽減できたはずだ。
「…お前はよくやってくれた。」
前を行く主人はそう言う。
「お前の作戦が無ければ我が軍は負けてただろうな。」
「いえ、私はそんな大それたことはしておりません。王子がいらっしゃって下さったからこそ、戦士たちの士気が上がったのです。」
「いや、お前がいなかったら俺たちはやっていけないだろうさ。」
いつもと違う彼にクラウドは首を傾げる。
「…お前は俺に人を殺させようとしないよな。いつもお前ばかりだ。」
「王子にあのようなことをさせるわけにはいきません。これが騎士の務めです。」
「そうだな…、お前の父親もそうやって戦死したんだよな…。」
静かに彼は言う。何かを思いつめているような顔。
父のことがでてきて、騎士はふと父の広い背中を思い出した。どうしてそんな話を急に出してきたのだろう。自分と同い年である王子には幼い頃に戦死した騎士の記憶など残っていないだろうに。
「騎士か…。大変な役目なんだな。自分の気持ちを抑えてまでいろんなことをやってさ。」
彼は空を仰ぐ。いつも笑っている彼がそんな思いつめた顔をしているのをやはり心配に感じてしまう。
「王子、ご機嫌でも悪いのではないのですか?そうならば休んでいきましょう。帰国が1日遅れても問題はありませんから。」
「いい。早く帰ろう、お前もそうしたいだろ。」
王子は馬の足を速め、騎士の前へと進んだ。手綱を掴んだ彼の穢れの無い手が騎士の前を通り過ぎる。
クラウドはふと手綱を掴む自分の手を見やった。どす黒い、乾いてしまった血の跡が残ってしまっている。もう少しちゃんと洗うんだった、そう思う。
すると王子が前を向いたまま口を開いた。
「…お前、アリシアのことどう思う。」
「は…?」
急に彼女の名前が出てきて驚いてしまう。1か月も会っていない彼女。国を発つ前夜に泣きながら戦争に行かないでと、言ってくれた人。彼女は今頃どうしているのだろうか。妃としての作法をアイリーンから学んでいるのだろうか。先を行く、この王子の妻になるために。
「…王妃になられるお方として、とても相応しい方だと思います。」
その静かな言葉に王子は黙っている。何かいけないことを言ったのだろうか。
「お前さ…」
そこまで言うと彼は黙ってしまう。意味ありげな視線を一瞬、騎士に向ける。しかしすぐに背けてしまった。
「いや、なんでもない。早く帰ろう。」
「はい…。」
先頭を行く、主人の後ろを着いて行く。やはり、1か月ものの緊張状態が続いたのだ、疲れているのだろう。騎士はそう思った。
後ろの長い行列を見やる。疲れた多くの顔が下を向いて歩いている。何の希望もない表情がずっと向こうまで並んでいた。勝つことが出来なかったという気落ちした、希望を失ったような顔。
これくらいで意気消沈してどうする。
クラウドは手綱を握りしめる。負けたわけではない。次の戦いで勝てばいいのだ。これくらいで落ち込んでしまっていては身が持たない。一国を守れるはずがない。現実は残酷なのだ。それを受け入れられるくらいの精神力を持たなければならない。あとから鍛え直さなければ、と騎士は馬に揺られながら思う。
―空を仰ぐ。
海より薄い青。
ここからは海が見えない。
海が恋しい。
あの、壮大な蒼海を見たい。
無意識に海を求めている自分を笑う。
やはり、
海の蒼さが一番好きだ。
_