Intangible proof

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ゆっくりと踏み締めるように歩いていた彼女は、不意に足を止め私に振り返る。






(ここでよく鹿を見たわね。)






そうだったろうか。言われればそんな気もする。


そして、そんな私の目の前をタイミング良く通り過ぎる牝の鹿。






(…覚えくれてたんだね。)






覚えていたから鹿が現れたと?そう聞こうとしたが彼女はまた奥へと歩きだしてしまった。
このオークの林を抜ければ小川が有ったはず…あぁ、やはりそうだ。せせらぎが聞こえる。






「…リリー。」






聞いてほしい事があるんだ。


思い出に浸るのも、勿論悪くない。
むしろ君とまたこうして居られるなんて、本当に、何と言ったら良いか。


この時をどれ程夢見て渇望したことか。






「リリー…!」






でも、それでも、聞いてくれ。


この一時はあまりにも甘美で、必死の決意が揺らぎそうになる。
だから私に、そんなふうに微笑まないでくれリリー。






「僕は、君に…」



(ねぇセブ。)



「――…?」



(…ありがとう。)


 
「………え…?」



(ありがとうねセブ。)





















小川のせせらぎが聞こえる。


牝鹿が背後を駆けて行く。


君は……君は、






「…何を……なぜ…」



(あの子の為に…私の為にこんなことになっちゃって、ごめんね?)



「そんな、僕はただ、ただ…」






全ては君への償いのため。


君に赦して欲しいがため。






(あなたは本当に勇敢だった。)



「違う、君は解ってない。僕はそんな人間じゃない。」



(そんなことないわ。あなたはあなた。私が覚えてる通りのセブ。)






清らかな川の純朴な流れも、そして君もまったく昔のまま。そう君は言い出したら聞かないんだ。





(私もね、セブに聞いてほしいことがあったの。)



「何だ?」



(覚えてる? 私に…汚れた血って言ったこと。)



「あぁ…それは、勿論。」



(私ね、ただの友達に言われたんならきっと立ち直ってた。…けど他でも無いあなたに言われたからショックだった、だってあなたの口からあんな言葉が出てくるなんて信じられなかったから。)






ようやく君の前で懺悔に伏す時が与えられたか。さぁ何とでも言ってくれ。気が済むまで、どんな言葉を突き刺してくれても構わないから。


…なのに、どうしてなんだ、どうして君はまた笑うんだ。






(私達似てるわよね。頑固で、意固地で、プライドが無駄に高くって…。だからあなたに歩み寄ることが出来なかった。もう良いよって、言えなかった。
それでも、きっといつかどうにかなるだろうって、あなたの優しさに甘えて…気が付けば後戻りできなくなってて…)



「リリー、それは僕が…」



(…だから今セブとこうしていられて嬉しい。ずっと、前みたいな2人に戻りたかった。)






君は、それで良いのか?


差し出されたその右手を、取っても良いと言うのか?






(……セブ?)






君がそう言うのなら、それは私だって同じだ。だからそんな不安げに見つめなくてもいい。
ただ少し、歳月と心の距離を埋めるのに時間が掛かっているだけなんだ。


なかなかその手へ辿り着けないこの右手は、でもやっと今、君との空白を埋めることができた。






「僕も、嬉しい。」



(…うん、良かった!本当に良かった!あぁ凄く緊張しちゃった。)



「大袈裟だな、そんな…」



(セブ、これで仲直りよね?そうでしょ?)



「君が良いのなら。」



(じゃあまた昔みたいに一緒にいられるわね。これからずっと。)




















「……ずっと…?」



(えぇそうよ。ずっと。)



「ずっと、君とここで…?」



(そう、いつまでもずっと。)





















…違う、それは違う。






「………」






違うはずだ。


これからは、全てが終わったら、行くべき場所が有ったはずだ。


心の中の穏やかな場所は、ここではなかったはずだ。








遠くには蒼い山々の稜線が清々しく、白い雲が高々と青い空に浮かぶ。


優しい風が頬を撫で土と草の香りを運んでくる、あのバルコニー。


そこから眺めるのはあの白い花が眩しいほどに一面を覆う薬園。






そして、隣には…








 
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