Intangible proof
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大鍋へ下準備の済んだ材料を順に投入し蒸留水で煮込む。
沸騰してから20分後に火を止め半日寝かせ、それを遠心分離し上澄みを取り出す。
それを更に火に掛け蒸留。一滴目が出てから5分後の10分間だけ抽出できる、おそらくこの親指程の小瓶に納まるくらいの僅かな量になるだろう。
頭の中で何度も繰り返した手順は完璧。あえて欠損があるとするならば、それは成功するかどうか。
「―はぁ、こっちは全部出来ましたよ。」
「ありがとう。後は私がしておくから今日は休んで。」
「まだ大丈夫…って、もうこんな時間…。」
下準備、と一言で言っても2人がかりでざっと5時間を優に越えている。
時計の針はすでに新しい1日を刻み始め、ナナコを見れば材料を用意する傍ら機材を少しずつ片付けていた。本格的な調合は次の夜になるのだろう。
その手つきは実に淡々としていて、職業柄慣れているからではあろうが、焦っているでもなく戸惑っているでもなく、そんな彼女がハリーには不思議だった。
「ナナコさん、偉いですよね。」
「…え、何が?」
「作業をしているときのナナコさんて別人みたいだ。いつもはおっとりした印象だけど、公私混同しないって言うのかな、こんなときだからこそ冷静でいられるのは偉いです。」
「そ、そうかなぁ?」
「そうですよ。頼りにしてます。」
おっとりとは誉め言葉だったろうか。と疑問に思いつつもナナコは素直に顔を赤くする。
しかし彼女は誉めてもらったばかりの作業の手をふと止めて、計量用の銀サジを弄びはじめた。
「確かに、そう、こんなときだからこそしっかりしなきゃとは思ってる……でもね本当は、頭の中も心の中もグチャグチャ。」
「グチャグチャ?」
「うん。」
ナナコは銀サジでグルグルと空をかき回すような仕草をすると自分らしくニコリと笑って見せようとしたが、あまり上手くはいっていない。
「…私ね、このままの方が彼にとっては幸せなんじゃないかって思ってしまうの。」
「どうしてですか?」
「あんなに優しい顔を見てるとね、彼が今何を見て何を感じているのかは解らないけれど、そこに居られたら彼はきっと幸せなんじゃないかなって…。」
「でもそれは、」
「うん解ってる。解ってるの…。」
溜め息混じりに呟いたナナコの横で極弱火に掛けていた薬液の色がフッと消えた。
「ナナコさんの気持ちは、解ります。」
ハリーの声に耳を傾けながら、ナナコは変色した薬液をやはり手際よく瓶に詰め替え機材をデスクの端に纏めていく。その一連の動きは、頭で考えていると言うよりは体が覚えていると言った方が正しいだろう。
「でも人は、この地上に生まれたからには、最後には帰るべき場所が在るんです。そうするべきで、それが人の道なんだと思います。
その道から外れることが幸せなら、それまで歩いてきた道は何だったって言うんですか。」
思ってもみなかったハリーの厳しい言葉にようやくナナコの手が止まった。
「…疲れてるんですよ、きっと。ナナコさんも早く休んで下さい。」
「うん、ありがとう。……ねぇハリー君、」
「―?」
「そこは、『帰る場所』は、どんな所なんだろう?」
その問いにハリーは薄く息を吸い込むと、至って真剣に、確信を込めて答えた。
「…その人にとって、一番幸せだと感じられる場所だと思います。」
1人残された薄暗い部屋の中で、ナナコは歳月と場所を遥かに超えて遠い地へと思いを馳せていた。
それは、いつか2人でと願ったあの場所。
叶わなかった遠い日の約束。
遠くには蒼い山々の稜線が清々しく、白い雲が高々と青い空に浮かぶ。
優しい風が頬を撫で土と草の香りを運んでくる、あのバルコニー。
そこから眺めるのはあの白い花が眩しいほどに一面を覆う薬園。
そして、私の隣には…
2人で過ごしたあの日々は、あなたにどれだけの幸せを捧げられたのでしょうか。