Intangible proof

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開け放たれた窓から風が抜けるように、小さな鳥があちらの枝からこちらの枝へ飛び移るかのように、何という事も無く日々が過ぎた。彼の記憶では自分の身に事故(ナナコの為に彼はそう思うことにしている)が起きてから一週間近く経つ。

そんなサラリと過ごす一時、元自室にて夕食の空まめとベーコンのマッシュポテトをたいらげた彼は、不意に、途方もない違和感に捕らわれた。



「…どうしたんですか?」


「あぁ…いや、」



古びたソファに座り空になった皿をじっと眺めていたスネイプをナナコが心配そうに覗き込む。



「いやただ、あまりにも何も無いなと…」


「何も無い?」


「どう言えば良いか…毎日が普通に過ぎて行くものだから、少し驚いている。
…まるで違う人間の人生に紛れ込んでしまったようだ。」



物心付いた頃には既に家庭は問題を抱えており、学生時代は勿論成人してからは言わずもがな、何事もないこの数日こそ彼にとっては異質なのだ。



「今ここにある全ては間違いなく教授のものです。こうしてる間に流れて行った時間も、これからの未来も、全部教授のものです。」


「…これから、か。まさかこの私にこれからが許されたとはな。」



そうだろう?と同意を求めナナコへ顔を向ければ、しかしそのニヤリと歪んだ口角は彼女を見るなりスッと力を無くしてゆく。



「………」


「教授、もっと自分を愛してあげてください。あなたは自分を愛してあげないから、いつも傷付いてしまう。
私はあなたを愛しているから傷付いてほしくない。だから、自分を愛してあげて…。」



怒っているように、泣いているように、ナナコは笑っていた。



ロウソクの明かりがその柔らかい髪を濡らしていた。

その白い肌は薄暗い部屋の中で淡く滲んでいた。

薬液に満たされたビーカーの底のようなその瞳の奥深くで、優しい何かが息づいていた。



「…教授…?」



気が付けば、彼はその全てを抱き締めていた。

なんと細い肩だろう。
なんと薄い背中だろう。



「…あの手紙は、デスクに置いたあの手紙は読んだのか?」


「は、はい、読みました。」


「そうか。」



そしてスネイプはナナコを腕の中から解放すると、まるで繊細な硝子細工でも扱うかのように彼女の手を自らの手で包み込む。



「私は再びこの部屋に戻ってくることができた。だから私は、君に伝えなければ成らない事がある。」






あの日願った未来。
『いつまで』の終着点。
『これから』の答え。

それこそが今、目の前にある。



その笑顔は、時に安らかに、時にザワザワとこの心を揺らす風。

その言葉は、限り無く私を抱擁し受け止めてくれる清々しい情景。

彼女と言う存在は、決して枯れることの無い白い花。



私の心の中の穏やかな場所。

それは、この愛しい人の心の中に。






「ナナコ、私と共に生きてくれないか。
ずっと、私の側に居てくれないか。」





ナナコの核心へ届くようにと、その一語一句は誠意に満ちている。

答えをじっと待つスネイプの胸にパタリと彼女の身体が倒れてきた。一瞬の不安が走り彼は咄嗟にその肩を支える。
ナナコ、と声を掛ければ彼女は更に彼の胸へと顔を埋めてきた。



「…―っ…」



小さくて不規則にむせぶ呼吸、その度に背中が震えている。
言葉は無く、代わりに想いは一滴一滴の結晶となって黒い服へ染み込み、そして心にまで浸透した。

嗚咽に揺れる肩に置かれていた手は再び、今度は力の限りにナナコを掻き抱き、全力で彼女を閉じ込める。



「…もう二度と離してはやれん…」



ナナコの頬に、彼女の物ではない涙が落ちる。



「…離れません…ずっとあなたの側に居させて…」



2人は同時に顔を見合わせ、互いに引き寄せ合い、どちらからともなく唇を重ねた。

融け合う息と息の狭間で、あの日交わした最後の言葉が低く囁かれる。
その呪文は彼と彼女を固く結び付け、そして古いスプリングの軋む音と共に2人はソファの上へ崩れ落ちた。




星が綺麗な夜だった。
静かで澄んだ夜だった。
この日のために、来るべくして来た夜のようだった。





 
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