s h o r t
□家まで1マイル
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ガラス越しにロンドンが流れてゆく。こんなところに店なんか有ったっけ、橋の塗装が綺麗になっている、などと考えているうちにバスは市内を抜け郊外へ入った。この辺りは毎年変わらない。
青々とした葉が眩しい街路樹の鮮明な残像がプツリと途切れ、街が遠ざかってゆく。ここから先はたまに町や集落がポツリポツリと点在するだけの何もない長い一本道。
あぁ僕は今あのバス停へ向かっているのだ。家へと少しずつ近付いているのだ。
頬杖をついても足を組んでも落ち着かない。心がザワザワとする。
父は待っているだろうか。
あの場所で、僕を待っているだろうか。
去年僕と父が行ったのは町に一件だけあるレストランで、レストランと言ってもメニューは家で出るようなものばかりで、正直に言ってしまえばホグワーツの食事の方が格段に豪勢だ。飲み物(主にアルコール)の種類の方が多いから、きっとあの店は夜がメインなのだろう。
何を食べたかは覚えていない。僕はたぶんパイか何かで、父はきっとマッシュポテトだったろう。何せ父からの思いもよらない誘いに舞い上がっていたものだから、父には悪いが食事なんて二の次だった。
僕の口は信じられないくらい、自分でも抑えが効かないほど軽快だった。そんなに話題も持っていないくせに喋り続ける僕の話を父は黙ってうんうんと聞いてくれて、それにまた調子づいた僕は長年の不思議を父に聞いてみた。
「前から不思議だったんだ、どうして父さんは毎年バス停まで来てくれるのかって。」
「それは…私の母がそうしたから、そうするものだと思った。」
「父さんの母さんてことは、僕のお婆さん?」
「……あぁ。」
ついに、と思った。ついに僕は父の事を、しかも本人から聞くことができたのだ。あの時の達成感、到達感を何と言い表せば良いだろう。
きっとあの大きくて濃い影を落とす何者かはどこかへ消え失せたんだ、僕はとうとう本当に父の近くに居るんだ。そんな期待がどんどん膨らんで、遠慮や平静を大胆に隅へ追いやっていった。
僕は興奮していた。舞い上がっていた。
だから、普段の僕なら気付けた事に、やや顔を伏せた父が雰囲気や目くばせで訴えてくる言葉に気付く事ができなかった。
「あのさ、2年生の頃なんだけど、僕初めて校長室に入ったんだ。」
「………。」
「それでさ、見たんだけど、あの絵ってやっぱり…父さんなの?」
期待、好奇心、緊張に跳ねる心音を聞きながら、父の答えを長いこと待った。
「………」
今でも耳に残る、「カチャン」とフォークと食器が重なったあの冷たくて乾いた音。
今でも瞼の裏から離れない、あの時の父の苦しそうに眉を寄せた表情。
その音がその表情が、一瞬で僕を正しい場所へ引き戻した。
今まで父があんな顔をしたことがあったろうか。近付いてはいけないところに踏み入ってしまったのだと、そのせいで父にこんな顔をさせているのだと、後悔の一言では済まない重苦しい鉛のような何かに胸が潰れそうだった。
やはり僕はそこに立ち入ってはいけなかったのだ。
「そろそろ時間だ。」
一変に静まり返った店内に父の低い声がやけに響いていた。
その後僕達は一言も交わさず、2、3歩ほどの距離を保ちながらバス停へ向かった。その2、3歩の間には、いつの間にかまた何者かが居座っている。あの時の父の背中の、なんと遠く感じたことだろう。
言葉どころか顔すら見れないまま、僕はバスに乗り込んだ。いや、窓越しにほんの一瞬視線が合ったけれど、僕はそれから逃げてしまった。
また来年。
毎年交わす約束も交わせずに、バスは父から遠ざかってゆく。堪らず後部座席の窓へ振り返ったが、バス停に黒い姿はもう無かった。