short

□光
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スニーカーの上にひらりと舞い降りた花びらを見て、春が来たことを知った。







駅からの帰り道、先ほどの研究会での棋譜を思い浮かべながら、下を向いて歩いていた俺は、落ちてきたピンク色の花びらに気付いて顔を上げた。


俺の頭上には、まだ蕾が目立つ桜の枝があって、ふるふると風に揺れていた。


ああ、そういえばもう春なんだな。


とっくに分厚いコートは箪笥にしまわれているというのに、日の落ちる時間がずいぶん遅くなったというのに、俺は今更しみじみと思った。


昔はもっと四季の移り変わりに敏感だった。


下を向いて気付かないなんて、いつの間につまらない大人のようになってしまったのだろう。



あ、そうか。


あの時は彼がいた。



俺なんかより、もっと細やかで、四季を愛し、花を愛していた、あいつが。



―――ヒカル、ほら桜が咲いていますよ



ふわりと花を指す、白い指先が見える。



―――これほどに美しいと、歌を詠みたくなりますね



薄紅の桜の花びらの降りしきる中で、そう言って微笑んだ彼の顔は、あまりにも鮮明で、俺はたまらなくなって目をつぶった。


あいつはあの時どんな歌を紡いだのだろう。


今になって、古語をしっかり習っておけば良かったと後悔した。



思い出すことは少なくなっていた。


会いたいと、思う気持ちも薄れてきていた。


それなのに、記憶はこうして突然、目眩がするほど鮮やかに蘇り、俺の心を切なく締め付ける。



誰とも分かち合えない思いを抱えて、俺は何度も空を見上げる。





きっともう二度と声を聞くことはできない。




きっともう二度と笑った顔を見ることはできない。



それでもかまわない。



ただ、この茜空の向こうで、この桜を、見ていてくれたらいいのに。












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