short
□Turm von Babel
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彼は全てを記憶している。
Turm von Babel
彼は生まれてからのことをすべて覚えていた。
例えば、今まで呼んだ本のページ数に段落の数。図書館の尖塔から見下ろした甍の配列。数年前に出された夕食の献立。
彼の頭の中にはそれらが鮮明な映像として保管されており、いつでも取り出して見ることができた。
そんな彼のことを人は神童と呼んだ。国が始まって以来の天才だと。しかし彼は自分に与えられたその称号を相応しいものだと思っていなかった。
自分は人が当たり前に備えている忘れるという行為が出来ない欠陥を抱えているのだから。
図書館の古びた匂いは記憶を絶えず刺激する。
それに疲れを感じると、彼は時折庭園に出て日の光や鳥のさえずりを肌に感じた。目をつむって、内観した彼の脳をめぐるのは限りない数列の波だ。
彼は数学を愛していた。この世の全てを数で表現しようとする、途方も無い学問に魅了されていた。
頭に無限に浮かぶ数式をつぶやく彼の声は、厳かな祈りの言葉にも神を讃える神秘的な唄にも聴こえた。
『リアン、ここにいたのか。客人だぞ。』
彼を呼ぶ養父の声に目を開けた。
『客人?』
『今度は医学区からのお誘いだそうだ。お前の論文を読んだようだね。』
またですか…と彼は困ったように眉を下げた。
『医学…人の命を救う素晴らしい学問だと思います。ですが、私は…』
『なら、その気持ちを彼らの目の前で言ってきなさい。彼らもお前の自身の言葉なら諦めるだろう。』
先日彼が発表した関数の論文はリーデンブルグ中の話題を席巻した。論文の内容もさることながら、それを書いたのがわずか八歳の少年だということに皆驚いたのだ。
ゲッティンゲンはそんな利発な養い子のことを誇らしく思っていた。
ただ、数学の神秘にのめり込んでいく彼には、彼の本当の父と同じ考古学の道へ歩んで欲しかったと密かに思ってもいた。