いばらのユノー
□道標
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セリスは彼の声を聞いて、たまらない気持ちになった。
ぎゅうと胸の奥がしぼられたように苦しくなり、喉の奥が熱くなる。
慌てて彼を起こそうと同じく膝をついたが、彼のぐっしょり濡れたバンダナの下から、真剣な瞳が覗いているのが見えて、セリスは動けなくなった。
雷の光が暗い室内を照らし、二人の横顔を照らし出す。遅れてまたドォン…と音がした。
ロックの手がそろりと動き、セリスの冷たい頬に触れる。
そのまま髪をかき上げられてもセリスは硬直したままだった。
彼の顔がこんなにも近い。
すぐ触れ合えるほどに。
息すらも溶け合う近さだ。
しばらくの間そうしていて、やっとロックが口を開いた。
「どこか怪我してないか?」
セリスはびくりと大きく体を揺らし、ようやくぎこちなく動き出した。
「…かすり傷だけよ。一応魔法をかけておく」
さっと視線を外して、胸を押さえた。
鼓動が信じられないほど早くて大きい。
この静かな部屋にいれば、彼に聞こえてしまうような気さえしてくる。
セリスはなぜか震えが止まらない指で印を組み、癒しの魔法を唱えた。
天候がおさまるまでしばらくここで雨宿りをすることにした。
ほかの仲間たちは待ち合わせ場所に向かっているそうだが、この雷雨ではきっとどこかで雨宿りをしているだろう。
ロックはいつになく落ち込んでいるようだった。
彼のせいではないのに。全ては未熟な自分のせいだ。
言葉を尽くしてそう伝えたいのに、うまく話せない。
それは先ほどから触れ合っている手のせいだった。
(どうしよう。どうしよう。どうしよう)
壁に背中を預けて、隣り合って座る二人の手が重なり合っている。ゆるく握られている程度だ。
(なんで。手が。どうして。どうしよう)
全ての感覚が触れ合う右手に集中している。右手だけではなく頭からつま先までカッカと熱くなって、濡れ鼠で寒いはずのセリスは汗をかくほどだった。
水たまりにつっこんだ自分が、ドブ臭いのではないかとものすごく気になった。
彼の手に力は入っていないので、すぐ離すことはできる。
だが、セリスはどうしてもそれができなかった。
(ごめんなさい、ごめんなさい…レイチェルさん…。今だけ…どうかこの時だけ)
一生のうちたった一度。どうか今だけだから。
今が一分一秒でも長くと、セリスは罪悪感に押しつぶされそうになりながらも祈った。
どうせ、彼にとっては些細なことなんだろう。
心配だから、きっとそれだけなんだろう。
さっき髪に触れたのも、怪我がないか確認しただけなんだろう。
「どうして魔法を使わなかったんだ?剣も抜かず…。セリスが本気を出せば、あんな奴ら敵ではないだろう?」
「そ、それは…」
セリスは言葉につまった。
「どうせ、相手は軍人ではない。民間人相手にそのようなことは…とか言うんだろう?」
「…そ、その通りよ…。でも剣を抜かなかったのではなく、抜けなかった。完全に私の力不足だ…。助けてくれて…ありがとう」
最初剣を抜くのをためらったのは、確かに相手が軍人ではなかったから。相手がごろつきだと油断した結果がこれだ。あの時にためらわず剣を抜いていればこんな事態にならなかっただろう。完全に自分を過信していた。
それに、魔法は相手が軍人だろうとなかろうと、ケフカのような狂った魔導士相手以外には、できれば使いたくはない。もう人にこの強大な力を行使したくなかった。
戦で何度も味わったあの気持ちは、もうたくさんだ。
でも、魔法がないとこれほどまでに自分は弱いのか。セリスは己の未熟さを心から恥じた。
「…本当に、肝が冷えた。俺はもうお前が傷つけられるところは見たくないんだ」
そう言うロックの方がひどく傷ついたように見える。
彼は傷ついた女性は見たくないのだろう。きっとレイチェルさんの辛い思い出を思い出させてしまうから。
彼に対してますます申し訳ない気持ちがわいてきた。
「ごめんなさい、レイチェルさんが…」
セリスははっとして口を閉ざした。
思わず口にしてしまった。
彼の前で彼女の名前を口にするのは初めてだった。触れてはならないような気がして、聞きたいことは山ほどあったけれど、声に出したことはなかった。
聞けばますます辛いことを思い出させてしまうだけだ。
「ごめんなさい…」
セリスは目を伏せ、そっと手を離した。
黙ってしまったセリスを見て、ロックはゆっくりと口を開いた。
「レイチェルは…」
そうしてロックは訥々と語り出した。彼の大事な人のことを。