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□Turm von Babel
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リアンは客人を見送って、深いため息をついた。


―――私自身の言葉で言わなければ伝わらないとお義父様は言った。その通りだと思う。

しかし、彼らはリアン自身の声など聞いてはくれないのだ。恐らく上司などに何としてでも引き抜いて来いなどと言われているのだろう。リアンが強い言葉で否定しても、若いうちから道を決めてしまう必要はない、いろいろなことを学んでから選んでも遅くはない、と話は堂々巡りだ。

それをもどかしく思いながらも、彼らの言葉も一理あると思ってしまうのだ。


『私は我がままなのでしょうか。』


突然のリアンの問いにゲッティンゲンは驚いた顔をした。


『世の中には素晴らしい学問がたくさんあります。それらを良く知らないのに学ぶ方向を決めてしまって良いのでしょうか。私は幸運なことに人から求められています。それを蹴ってまで進む価値が、私が直感だけで選んだ道にはあるのでしょうか。』


ゲッティンゲンはそれを聞いてふっと笑った。彼がリアンに接する時は大人にするものと同じようにしていたのだが、今は幼子にするように柔らかく笑った。


『彼らに言われたことを気にしているのかい。』


リアンはこくりとうなずいた。


『私の言葉はあの人たちにとっては取るに足りないもののようです。私は自分の気持ちを偽ることなく正直にお伝えしたつもりですが、私の言葉には彼らを動かす力はなかったようです。』


そんなことはない、とゲッティンゲンはうなだれる養い子の肩を叩いた。


『彼らは君の言葉に耳を貸す余裕はなかったんだろう。君の言葉は私も驚くほどの力が備わっている。君が書いた論文の影響力を見たまえ。』


『しかし、私が望んだ方向とは違う方向に影響しているようです。』


『リアン、元々人の言葉というのは正確に伝わらないようにできているんだよ。どれだけ言葉を尽くしても、それが口伝えであっても文字であっても間に人という存在が入る限り正確ではない。そこには個人個人の独自の解釈が発生してしまうからね。人は聞きたくない言葉には簡単に耳を塞ぐ事が出来るし、都合の良い言葉だけ耳に入るようにできている。悲しいことだが、仕方がないんだ。』


だから落ち込む必要はない、とゲッティンゲンは続ける。


『人生を決めるときというのは、思いがけず直感が大きく作用しているのものだ。周りがどう言おうと自分が決めた道を進む方が良いと私は思うがね。それに数学というのは、唯一正確に示すものを他者に伝えることのできる方法だとも言える。そうだな…』


ゲッティンゲンは少し思案した後、自分の引き出しから古い鍵束を取り出してその中の一つを外し、リアンの手のひらに置いた。

元は金色に光っていたのだろう、その鍵はところどころ黒ずんでいたが、ひんやりとリアンの手に馴染んだ。


『私も、実を言うと他の学問を見てみるのも素晴らしい考えだと思う。数学の研究をするのにも役に立つ時が来るだろう。その鍵は地下書庫の禁書棚の鍵だ。お前の父が書いた本が納めてある。』


リアンは驚いて鍵から養父に視線を戻した。私の父の本?この世に残っていたのか…。

彼の父は彼が幼い頃、諮問機関アギオナによって攫われて行方不明になっている。ゲッティンゲンはそれを隠しリアンには父は亡くなったと告げていたが、驚異的な記憶力を持つ彼は、その時の様子を鮮明に覚えていた。

そしてその日以来母が、泣いても叫んでもこちらを見てくれなくなった事も。


『理由があってね、君の父親の本は書架には出すことができないから禁書棚に置いてある。私以外は開けることのできない棚だから、他の者が来る前…朝の7つの鐘がなるまでなら読んでもかまわない。』


―――父の本、それには私の進むべき道を示してくれるのだろうか。


リアンは手にした鍵を握り締めた。




彼の目の前には堆く分厚い本が積まれている。そのどれもが数学書だった。

彼の眼球は規則的に数字の羅列を追い、すさまじいスピードで指はページをめくる。それでも、彼の頭は本の内容を理解していた。

彼は全てを記憶する。しかし、記憶だけじゃ足りない。彼は強烈に知識を求めていた。


まだ彼は地下書庫には足を踏み入れていなかった。だが、禁書棚の鍵は大事にしまってある。父の本には大変興味があるが、触れるのが怖いのだ。まだリアンには受け止められる能力があるとは思えなかった。




どれだけ言葉を尽くしてもそれは誰にも正確には伝わらない、と養父は言った。


だけど、数は違う。数は全てを表す媒体だ。曖昧な言葉を補い、確かな質量と感触を人に与えてくれる。


数の理論を極めたとき、初めて父の本とちゃんと向き合えるような気がする。理解できるような気がする。


―――いや、その時はこの世の全てを理解できるような気がする。お義父さま。私は全てを解りたいと思うし、全てを解ってほしいと思ってしまうのです。それは傲慢なのでしょうか。







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