志士夢
□優しい夜
1ページ/1ページ
見知らぬ地。一人で居るのが怖いと思った。
周りにはビルも車も無くて。東京という地名は無いと言われて。夜になれば電気も無くて、怖いほど暗くて静かだった。
慌ただしい一日の終わり、身を寄せる事にした寺田屋の縁側から見上げた、月の見えない夜空の星がとても綺麗で、余計に寂しくなって涙が出た。
「月に帰りたいのか?」
暗闇から声がして、つい反射的に身を強張らせた。
だけどすぐに声の主に気付いて安堵した。
「以蔵…」
以蔵は何も言わずにすっと隣に腰掛けて、同じように空を見上げた。
わたしは涙を拭って、膝を抱えて彼の様子を窺う。
初めて会った時はとても恐いお兄さんだと思ってしまった。だけど本当は優しくて、言葉の裏に温かさが溢れている人だってわかった。
“月に帰りたいのか”。
それって、わたしに訊いてるの?
「当たり前だ、他に誰が居る」
「………どうして、月なの?」
「………………」
素朴な疑問に、以蔵は複雑な表情を浮かべて口を噤んだ。空気を伝わる僅かな熱を受けて、彼の顔を横目に覗き見る。
…多分、赤くなってる。“多分”って言うのは、暗がりではっきりとは見えないから。だけど無言でしかめるその表情は怒っているような、照れているような。何だか幼い子供みたいで可笑しかった。
「………ふふ」
堪らず吹き出した。すると彼は、「泣いたり笑ったり忙しい奴だ」と呆れた声を返す。だけどその声音は優しくて穏やかで、感傷した心にじんわりと沁みた。
「…ねぇ。夜って、こんなに暗いんだね…」
わたしの居た時代のそれと比べての、素直な感想だった。暗くて怖い、というわけではない。だけど、この静かな暗さが一層、わたしの感情を逆撫でして胸騒ぎに似た感覚に襲われそうになる。
そんなわたしを見て「そうか」と頷くように呟いた後、再び空を仰いで「それでも…、」と此方に向かって続く言葉を紡いだ。
「俺は好きだ、こういう夜が」
「……好き?」
聞き返した途端、雲から逃れた月が顔を出して、その光が以蔵の姿をはっきりと照らした。
……昼間とは比べようがないくらい、穏やかな表情だった。
あぁ、そうか。これが、以蔵が好きな夜…。
見上げた空に浮かぶ月の光や星の瞬きが、こんなに明るいなんて知らなかった。
「………ごめん、以蔵」
「…何が」
「前言撤回する。夜が暗いって言ったこと」
「……変な奴」
口は悪いけど、溜め息混じりの声はやっぱり優しかった。
…ふと、何時の間にかあの寂しさが胸の中から消えていた事に気付く。
「――先程、」
以蔵が急に切り出す。わたしは首を傾げて彼の方に向いた。
「何故、月なのか…と言うと」
「………?」
さっきのわたしの質問に答える気になったようだ。彼を見つめ、耳を澄ませる。
「………天からの遣い、だと思ったからだ」
「………天?」
苦笑して一回頷き、
「だから、お前の帰る場所は月なのかと訊いたんだ…」
…と。
彼は意外と可愛いことを言う。何だか温かい気持ちになって、自然と顔が綻んだ。
ねぇ、以蔵。
呼びかけるとまた、あの複雑な顔を向ける。
「…わたしも、こういう夜が好き」
伝えれば、今までで一番の笑顔を返してくれた。
――きっと大丈夫。此処に居ても、わたしは大丈夫。
この時代の空も人も、わたしの怖さや寂しさを吹き飛ばしてくれたから。
少なくとも、隣の人は味方でいてくれる。わたしは一人じゃない。
暗がりの中、柔らかな光を見つけた。
優しい夜
(月明かりと満天の星。隣の人の温もりと新たな胸騒ぎ…)
終
***
本館blogに掲載した作品の改正版でした。