志士夢

□優しい夜
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見知らぬ地。一人で居るのが怖いと思った。

周りにはビルも車も無くて。東京という地名は無いと言われて。夜になれば電気も無くて、怖いほど暗くて静かだった。

慌ただしい一日の終わり、身を寄せる事にした寺田屋の縁側から見上げた、月の見えない夜空の星がとても綺麗で、余計に寂しくなって涙が出た。


「月に帰りたいのか?」


暗闇から声がして、つい反射的に身を強張らせた。
だけどすぐに声の主に気付いて安堵した。


「以蔵…」


以蔵は何も言わずにすっと隣に腰掛けて、同じように空を見上げた。
わたしは涙を拭って、膝を抱えて彼の様子を窺う。

初めて会った時はとても恐いお兄さんだと思ってしまった。だけど本当は優しくて、言葉の裏に温かさが溢れている人だってわかった。

“月に帰りたいのか”。

それって、わたしに訊いてるの?


「当たり前だ、他に誰が居る」

「………どうして、月なの?」

「………………」


素朴な疑問に、以蔵は複雑な表情を浮かべて口を噤んだ。空気を伝わる僅かな熱を受けて、彼の顔を横目に覗き見る。
…多分、赤くなってる。“多分”って言うのは、暗がりではっきりとは見えないから。だけど無言でしかめるその表情は怒っているような、照れているような。何だか幼い子供みたいで可笑しかった。


「………ふふ」


堪らず吹き出した。すると彼は、「泣いたり笑ったり忙しい奴だ」と呆れた声を返す。だけどその声音は優しくて穏やかで、感傷した心にじんわりと沁みた。


「…ねぇ。夜って、こんなに暗いんだね…」


わたしの居た時代のそれと比べての、素直な感想だった。暗くて怖い、というわけではない。だけど、この静かな暗さが一層、わたしの感情を逆撫でして胸騒ぎに似た感覚に襲われそうになる。
そんなわたしを見て「そうか」と頷くように呟いた後、再び空を仰いで「それでも…、」と此方に向かって続く言葉を紡いだ。


「俺は好きだ、こういう夜が」

「……好き?」


聞き返した途端、雲から逃れた月が顔を出して、その光が以蔵の姿をはっきりと照らした。
……昼間とは比べようがないくらい、穏やかな表情だった。

あぁ、そうか。これが、以蔵が好きな夜…。

見上げた空に浮かぶ月の光や星の瞬きが、こんなに明るいなんて知らなかった。


「………ごめん、以蔵」

「…何が」

「前言撤回する。夜が暗いって言ったこと」

「……変な奴」


口は悪いけど、溜め息混じりの声はやっぱり優しかった。
…ふと、何時の間にかあの寂しさが胸の中から消えていた事に気付く。


「――先程、」


以蔵が急に切り出す。わたしは首を傾げて彼の方に向いた。


「何故、月なのか…と言うと」

「………?」


さっきのわたしの質問に答える気になったようだ。彼を見つめ、耳を澄ませる。


「………天からの遣い、だと思ったからだ」

「………天?」


苦笑して一回頷き、


「だから、お前の帰る場所は月なのかと訊いたんだ…」


…と。
彼は意外と可愛いことを言う。何だか温かい気持ちになって、自然と顔が綻んだ。

ねぇ、以蔵。

呼びかけるとまた、あの複雑な顔を向ける。


「…わたしも、こういう夜が好き」


伝えれば、今までで一番の笑顔を返してくれた。


――きっと大丈夫。此処に居ても、わたしは大丈夫。
この時代の空も人も、わたしの怖さや寂しさを吹き飛ばしてくれたから。
少なくとも、隣の人は味方でいてくれる。わたしは一人じゃない。

暗がりの中、柔らかな光を見つけた。





優しい夜
(月明かりと満天の星。隣の人の温もりと新たな胸騒ぎ…)



***
本館blogに掲載した作品の改正版でした。

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