◆L'Art de la Conversation





「ねえエックス、エックスが女役なの?」
「え、ちがうよ」

と、投げかけられた問いに何の気なしにさらりと答えてしまってから、エックスは「しまった」と気づいてその場で固まった。
うっかり返事をしてしまったことを悔やんでも、一度出した言葉はもう引っ込まない。こんな、誘導とも言えないへたな尋問に引っかかってしまうとは。ギギギ、と歯車のきしむ音が聞こえてきそうなギコチない動きで顔を上げれば、尋ねた当人もまた「しまった」という表情のまま固まっていた。

「え、なに、そうなの? そういうあれなの? え、じゃあ、そういうこと? ねえ、だって、エックスがあれなら、ゼロが」

混乱した口調でフォローになっていないセリフを矢継ぎ早にくりだすアクセルを前に、エックスの羞恥と怒りのボルテージはあっという間に極限値まで達した。

「いい加減にしろ!」

とりあえず怒鳴ってはみたものの、目許に赤みのさした顔ではあまり迫力がなかった。おまけに、出だしがわずかに引っくり返ってしまう有り様だ。しかたなく声のトーンを落とし、それ以上言うんじゃないと制すのが関の山だった。
反射的に返事をしてしまった自分の迂闊さに、エックスは片手にE缶を握ったまま頭をかかえた。

「だいたい、なんでこんな話になってるんだ」

飲み過ぎだぞ、とたしなめると、アクセルは冷えて水滴のついた金属のゴブレットをからからと振った。
中身はスパークリングウォーターだった。

「そうでもないよ。飲み過ぎはエックスでしょ」
「なんだよ。おれはべつに」
「だってさあ、いつもならエックス、ボクや部隊のみんながヘンな質問しても、怖い顔して『サッサと仕事に戻れ』って言うだけじゃない」

痛いところを突かれてエックスは押し黙る。たしかに、ふだんならその手の話には決して乗らず、水を向けられても取り合わないのが常だったからだ。
しかし、自分はそんなに冷酷そうに見えていたのか。怖い顔とは何とも言われたものだ。ほんとうは、怒って怖い顔をしているわけではなく、そういう話が出るといつも照れくさくて、どんな応対をしていいのか分からずにいるだけなのだが。

(ばかなこと言ってないで、サッサと──)

ああ、昔そんなことを言ったひとがいたなあ。おれも少し、口調が似てきたのかもしれない。一瞬そんな古い記憶まで意識が飛び、自分が酔いつつあることを自覚する。浮かんだ苦笑いを誤魔化そうと、飲みかけのE缶に口をつけた。濃い紫色をした、しゃれたエナジードリンクだった。甘酸っぱいはずのカラントのフレーバーが、今は無性に苦く感じた。

薄黄色を基調にした、広々としたホールでは、たくさんの人々が食べものや飲みものを手に談笑していた。いつもの見慣れた隊員食堂[カフェテリア]も、机や椅子を取り退けてしまうと、なかなかりっぱな大広間だった。今日は、ハンター本部に所属する人が一堂に集まる日だ。ハンター、オペレータ、メカニックに研究者たち。レプリロイドも人間もいる。立食形式の、新入りを歓迎するためのささやかな宴だった。
もっとも、人間中心の社会とはちがって、人員の入れ替わりは少なく、毎年のように大勢の新入隊員があるわけではない。隊員の顔合わせという名目で、ふだん接点のない部隊同士の親睦会をも兼ねていた。緊張を強いられることの多い隊員生活における、数少ない娯楽のひとつだ。
そんな中でも、なだかい精鋭部隊をまとめるエックスの周囲は、ちょっとした人垣になっていた。といって、アイドルのごとく人だかりに揉まれるというほどではない。いうなれば、放課のあとで教官のまわりに卒業生が集まる程度のものだ。どこでも好奇心の旺盛な者はいるし、こんなときぐらい、日頃の難しいことは忘れて騒ぎたいという者もいる。フロアのあちこちのかたまりは、友人同士のまとまりだったり、隊長を中心としたまとまりだったりとそれぞれだった。
そのときエックスの周辺にいたのは数人で、アクセル、ダグラス、一七のでこぼこコンビ、などといった気心の知れた面子だった。そんなわけで、冒頭のエックスの失言にも、古参の二人はさして驚きもせず、たしかに聞こえていたであろうダグラスは、我関せずとばかりに紫に白衣の科学者と新しいモジュレートシステムの話を続けていたのが救いと言えば救いだった。なにか別の話を始めて話題を逸らそう、とエックスが思ったところで、斜向かいの少し離れたところにいた集団が三々五々分散し、その中の一人がすたすたとこちらへ向かってくるのが見えた。まあ、なんともタイミングが良くないことだ。

「隊長」

入隊当初は第0に配属されていた隊員が、真っ先に声を上げる。彼は、相変わらず皆から隊長と呼ばれていた。ハンターベースでも異色の集団を従える彼は、いつもどこか人を惹きつける華がある。その場にいた者が目礼をしたり軽く片手を上げて挨拶したりするのに一拍遅れて、エックスはしぶしぶ声を出した。

「やあ、ゼロ」

呼びかけに、ゼロは顎の先をほんのわずかに持ち上げるだけで答えた。人を選ぶ動作だ。ことによっては無造作に映りかねない仕種さえ、生来の美貌によって、むしろ落ち着き払った優雅さを醸し出している。そういう点において、つくづく得な外見ではあった。こんな席だというのに空[から]手で、まったく飲んだ様子も見えないのが、らしいといえばそれらしかった。

「いいのかい、新入りを放ったらかしにして」
「構わないさ。副隊長に預けてある」

あいつのほうが、俺よりよほど気が利く。先刻[さっき]も、ばか騒ぎから庇ってやっていた。そう言ってゼロは薄く笑った。エックスへの挨拶は、それで終わりらしい。ゼロはアクセルのほうに向き直ると、何だその顔は、などと言いながら額のコアをつついたりしている。だいたい、どちらがナイフでどちらがフォークかなんて、ハシに向かって訊かんだろ。なにそれ。もののたとえだ。よせよせアクセル、勝ち目ねえぞ。良くて負け目だ。ひどいなゼロまで。皆の他愛もないやりとりを、エックスは黙って眺めていた。たったの一言であたふたする自分とはちがい、ゼロは堂々としたものだ。気安い仕種も、冗談を受け流すすべにも長けている。それより、と言ったゼロの声が思いがけず至近距離で響いて、エックスは一瞬わずかに目を見開いた。

<それより、こんなところ抜け出さないか>

しかし、ゼロの口許は動いていない。非正規の回線を使った内緒[ないしょ]話だ。エックスもまた、周囲に気取られないよう、表情を変えずに答えた。

<なに言ってるんだ>

傍目から見れば、無言でE缶を傾けているようにしか見えないだろう。手持ちぶさたのゼロと、よそ見をしてドリンクを飲んでいるエックス。二人の間のつながりには、会場の誰も気づいていない。

<きみ、新人隊員をかかえる隊長だろ>
<堅いこと言うなよ。一緒にどこかへ更けようぜ>

どこかってどこだよ、と切り返そうとして、エックスはその言葉を飲み込んだ。そんなことを聞き返しては、まるで乗せられたのと同じことだ。

<まったく。新入り気分が抜けないのはきみじゃないか>

咳払いをして、諫めるように続けた。この方法でのやりとりは、どうもゼロの側の意識に引きずられやすくていけない。今も、目の前に、瞬間どこかの埠頭の風景が浮かんだ。もちろん、現実ではなく、ただのイメージだ。青い海、港、桟橋。大きな客船も見える。

<抜け出すって、そんな大げさな意味なのか>

呆れて声もなく呟くと、今度は夜中の高速道路が心に浮かんだ。深夜で、ほとんど何も走っていない。山に向かって飛ばしている。黒々とした真っ暗な山脈の間に、点々とまっすぐ続く光の砂粒は空港の滑走路だろうか。

<ゼロ>

ぞくりとして、知らず横目であたりを窺ってしまう。なんという直球でくるんだ。いくら誰にも聞こえないとはいえ、周りには大勢の人がいる。こんなに人のいる中で、そんな囁くようなイメージを乗せられる身にもなってくれ。フラッシュのように、深夜の静まり返った風景が心に灼きつく。
気がつけば、すでにアディオンに乗っている。暗闇を裂いて、最高速度で走っている。加速ギアは全開だ。黒い路面を照らすナトリウム灯の光が、次々と激しい速さで後方へ飛びすさっていく。隣にはゼロがいる。路面にすいつくようなハンドルさばきで、寄り添うように併走している。眼下には深い闇が広がっている。しかし、それは闇でなく、静まりかえった夜の海だ。はるか前方には切りたつ黒い山々が見える。その先に何があるのか、エックスは知らない。
どこか遠くへ。それは、プログラムの奥底に仕込まれた、小さな小さなパスワードだ。そうそう目にすることもない、何重にも隠された小さな鍵。それを、何の前触れもなく、こんな場所で、こんなときに、いきなり目の前に差し出されてしまった。
今の日常に不満はない。この、つかのまの平和は嫌いではない。世界は海のように穏やかだ。穏やかで、でもどこか胸のつまるような日常。またいつ牙を剥くのか、それは誰にも分からない。こんな場所は抜け出して、ついでにこんな日常も抜け出して、すべてを置き去りにして、誰も知らないところへ。それは、頽廃的で、行き止まりで、見通しもなく、意味もなくて、しかし喩えようもなくエックスの心をくすぐった。見知らぬ世界のイメージがますます視野を浸食し、まともな思考ができない。真夜中のはりつめた空気、静かな世界を切り裂いて疾走するチェイサー、激しく流れる街路灯の光。もうすぐ、エリアの境界を突破する。

<気に入らないのか>

ふいに囁くような声がして、イメージは途切れた。エックスはハッとして我に返った。そのとたん、あたりの景色がいちどきに押し寄せた。ホールの目映い明かり、いま自分は室内にいること、隊員たちやアクセルが歓談する笑い声。ゼロとのかすかなつながりは、今この瞬間にも途切れようとしていた。去り際に、言語のメッセージだけが一言、あとを引くように余韻を残した。
思わずゼロの顔を見やると、ついと瞬きをして視線を外された。

「じゃあな」

ゼロは何事もなかったような顔をして、誰にともなくそう言った。いきなり現実に引き戻されて、意識が上手く統合できない。じゃあなって、なんだっけ。そうだ、ゼロはここを抜け出すと言っていた。このまま会場から姿をくらますつもりなのだろう。エックスが何か言うより早く、ゼロは下に向けた手を軽く振ると、さっさと離れていってしまった。
ゼロが去ってからも、エックスはしばし茫然として佇んでいた。つながりはとうに途切れているのに、まだイメージの余波が収まらない。わずか数秒間のアクセスだったにもかかわらず、どろどろした甘ったるい物をしこたま飲まされたような気分だった。だが、けっして不快ではない。
ああいうことは、たとえば二人きりの夜に、なかば戯れに、なかば本気で、耳許に囁きかけたりするたぐいのものなのではないだろうか。いったい何を思って、いきなりあんなイメージを流してきたのか。
去り際にゼロの残した一言が、脳裏をよぎる。



<今夜は部屋にいる>



──これは、遊びに来い、ってことでいいんだよな。
とりあえず、こればかりは間違いないだろう。心をかき乱す存在は、少くとも今日はどこかへ逃避行する気はないらしい。
よし、と一人頷く。今夜は、「女役だと思われたままの」、あわれで美しい親友のところへ遊びに行こう。眠くなってしまってはつまらない。エックスは飲むのをやめると、並んだデセルに手をのばした。










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L'Art de la Conversation (ラール・ドゥ・ラ・コンヴェルサシオン) 『会話の術』. 1950



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