フィヨルディア

□第9話:思い錯綜
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〜思い錯綜〜



――一体、どうしてこんな事になっているのか。私は普段通り屋敷の廊下を歩いていて…そう、部屋に常備していた飲み物がなくなったから、補充しに行こうとしただけだ。仄を連れるまでもなく、里乃を誘う程の用事でもないから、一人で長い廊下を歩いていた。ペットボトルや缶などの部屋に置いておけるような飲み物は、広間の近くにある売店らしき場所で手に入る。最近紅茶ばかり飲んでたから、たまにはコーヒーでも取ってこようかとか、ついでに広間に寄って茉莉に挨拶でもしようかとか、そういう取り留めのない事をぼんやり考えながら歩いていただけなのに。

「呉南紅華。それって、アナタのことで間違いない?」
「っ…そうだけど、それが何か…?」
「そう。アナタが…ふーん…」

肩を掴む手にギリッと力が入り、長く綺麗に伸ばされた爪が肌に食い込む。壁に強く打ち付けられた背中共々痛むけど、それより何より、状況がわからなくて混乱の方が大きかった。どうして。そして、目の前のこの女性は誰。少し後ろに立って見ている男性も誰。知らない人からこんな仕打ちを受ける程の何かを、私はしただろうか。

「……なんだ。思っていた程カワイくないのね。もっと、絶世の美女なのかと思ったから、期待外れ」
「あ…あなた、一体誰よ…私に、何の恨みが…」
「ねぇ、どうしてアナタなんかが、彼に気に入られてるの?どうやって取り入ったの?」
「は…?か、彼って…?」
「…頭の悪い人。それとも、とぼけてるの?…ワタシの方が、ずっと前から好きだったのに…」
「だから…さっきから、誰の話をして…」
「………。呉南紅華…どうして都クンは、こんな鈍い女を気に入ったのかな…?」

こっちの問い掛けを全て無視して、出て来た名前に更に混乱する。…一瞬、仄の事かと思っていた。気に入られてる…かどうかは別としても、少なくともこの世界で一番私に近いところにいる男性は仄だ。専属悪魔なのだから当たり前なのかもしれないけど、なんやかんやとあいつと過ごしてる時間は長い。だから、ここで仄の名前が出て来るなら、まだ納得も出来た。けれど、彼女から出て来たのは別の名前:それも、あまり進んで話題に出したくない奴だった。

「ちょっ…と、待ってよ。あなた、何言ってるの?都?私は、あの人とは何の関係も――」
「知ってる?彼はね、人間の名前はほとんど覚えないの。どうせこの世界から消える人なんて、一々覚えててもしょうがないから。なのにね、茉莉とお話ししてる都クンから、アナタの名前が出て来た。どうして?」
「そんなの知らないわよ…本人に直接訊けばいいじゃない」
「なにそれ、嫌味?都クンは、ワタシとは全然お話ししてくれないんだよ?名前だって呼んでくれない。だからわざわざ、アナタに訊きに来たのに…本当に、頭の悪い人」

ダメだ、話にならない。私は本当に都には何とも思われていないと思うのだけど、この調子じゃあ、いくら言ってもわかってくれそうにない。助けを求める気持で、さっきからずっと彼女の後ろに立っている男の人…恐らく彼女の専属悪魔だと思われる人に視線を向ける。和服姿で、落ち着いた大人の印象を受ける彼は、私と目が合うと、やんわりと微笑んだ。…ダメだ、この人は味方じゃない。彼女を止めもせず傍観していた事からそれは分かってたけど、今、完全に僅かな希望も打ち砕かれた。

「…どんな手を使ったのか教えてよ。やっぱり、身体?相性がよかったのかな?」
「っ…あなた、さっきから初対面のくせに随分失礼な事を言うのね。私に突っかかる前に、まずは自分の性格を見直したら?」
「…………」
「……大体、私は都なんて好きでもなんでもな――」
「ふざけないで!!ワタシは…ワタシは、どんなに頑張っても相手にしてもらえないのに!それを、アンタは…!」

…今のは、自分でも言ってから失言に気付いた。こっちもいい加減腹は立ってきてたけど、こういう人の神経を不用意に逆撫でするのは、得策じゃない。好きな人に気に入られてると思い込まれてる私がどんな事を言っても、この人は気に食わないだろうけど…都を何とも思ってないという発言は、下手に『私も好きだ』と言うより、相手を怒らせるものだった。

「……ねぇ、時雨」

 ポツリと、彼女は誰かに話し掛ける。時雨…それが、後ろに控える悪魔の名だろう。

「はい。なんですか?」
「この世界では、滅多な事じゃ人間も悪魔も死なない。人間が人間を一度くらい殺しても、罪にはならない。そうよね?」
「ええ、そうですね。まあ、道徳的に言えば暴力はいけない事ですから、少しは叱られるかもしれませんが」
「そう。じゃあ、この女、殺してもいい?痛めつけてやらないと、ワタシ、気が済まないみたい」
「貴女のお好きに。茉莉には、後でごめんなさいと言っておきましょう」

目の前で交わされる会話に、ゾクリと寒気が走った。殺されるという事自体にじゃない。いくら死なないとは言っても、人を一人殺す話を…殺すくらいに痛めつけるという会話を、滞りなく行っている事が怖い。…この人達、狂ってる。悪魔はともかくとして、この女…私と大して変わらないくらいの歳の人間なのに、どうして、こんなに躊躇いなく人を殺そうなんて思えるんだ。
 
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