ノット・レストインピース

□幕間 1,Tubalcain
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 カーテンを開け放った窓から射し込む月光のお陰で、室内は大分明るかった。
 時刻としては午前零時を告げる鐘の音が余韻さえ残さず消え去った頃、という真夜中だ。夜空には星と月が輝き、教会の周囲はひっそりと静まりかえっている。
 照明を点けなくてもいいくらいには明るい部屋――寝室で、ヴェール教会の司祭は木製の椅子に腰を下ろした。
 傍には小さなテーブルが置かれ、白いレースが引かれたテーブルの上には花瓶や本、はたまたキンを保管する為のシャーレなどが載っていた。
 椅子がギシッと軋む音を聞きながら、背もたれに体重を預ける。

「――ふう……」

 額にかかる前髪を掻き上げて大きく呼気を吐き出した。
 黒縁の眼鏡を外して、髪を押さえていた手で両目を覆う。手の甲で視界を閉ざし、もう一度嘆息。唇から零れた吐息は結構な疲労を孕んでいた。

「随分と今日は疲れましたね……」

 身体を覆う倦怠感に思わず呟いてしまう。さほど疲れるような事はしていないつもりだったが、ずっしりとのし掛かってくる疲れは無視できそうにない。
 原因は分かっているし、それがどうにもならないことも分かる。
 だが、この気怠さの中に違うものが交ざっていることもトバルカインは知っていた。
 それは歓喜。狂喜と驚喜。
 自分の求めるものが、手を伸ばせば奪い取れそうなほど近くまできていた事。自らの悲願を――否。“彼”の想いを叶える為の指標が、偶然とはいえこの教会にあった。
 思えば思うほど、疲れに比例するように喜びは増していく。
 不意に、ふふ、と笑う声。
 吐息にも似た笑い声が自分の口から出ていると理解するまで、数秒ほどの時間を要した。

「……笑っているのですか、私は」

 信じられない、とでも言うように、トバルカインはぼそりと口にする。
 確かに、ラボを辞めてから今の今まで、こうも気分が高揚したことなどないといえばない。しかしそれにしても、自分が笑っている事にさえ気付けないほどとは思わなかった。
 目を覆っていた手を退けて、背もたれから背を離す。
 外して手に持ったままだった眼鏡をかけ直し、指先で位置を微調整して確認する。
 それが終わると同時に、トバルカインはぴくりと眉を動かした。
 ――ざわっ、と空気が振動したような感覚。常人ならば感じえぬ“嫌な感覚”に、トバルカインの表情が一気に塗り替えられる。

「――黙りなさい」

 唇が紡いだのは、異様に冷めた言葉だった。
 不快げに目を眇めたトバルカインに、優しげな聖職者の雰囲気など微塵もなかった。
 今居る場所は自身の寝室だから、室内にはトバルカイン以外の影はない。だが彼が吐いたのは紛れもなく何かに向けた警告であり、彼の双眸は確かに何かを捉えている。
 静まった部屋で一人、何かに向かって黙れと言う。
 誰かが目撃したら勘違いするのは確実、といった奇妙すぎる状態だが、当の本人の表情は冗談など含んでいない。

「…………」

 ああ、うるさい。うるさいうるさいうるさい。
 人間の耳では聞き取れない筈の微細な“それ”。嫌悪を隠そうともせず、トバルカインは舌打ちする。
 黙れ、と言ったのが聞こえなかったのか、周囲に一切変化はない。
 それを疎ましく思ったのか、トバルカインは苛立たしげに椅子から立ち上がった。
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