ノット・レストインピース

□幕間 1,Tubalcain
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「うるさい、と言ったのが聞こえませんでしたか」

 淡々と、命令を下すように言葉の刃を虚空に向ける。
 ざわざわ、と再びあの嫌な感覚。今度はある程度落ち着いたが、それでも完全になくなりはしない。
 普段ならば「しょうがない」と諦める事が出来る筈なのに、何故だか気に障って仕方がなかった。
 顔を顰めたトバルカインの手がテーブルへと向かう。テーブルの表面を擦るように横に一閃、手を戻すよりも先に硬質の物が割れ砕ける音がした。
 澄み切っているとも言える音に表情を変える事なく、トバルカインは今し方振り抜いた手を強く握る。掌に爪が食い込む痛みも気にならない。
 彼の視線は、自分がテーブルから弾き落としたものの残骸に注がれていた。

「……黙れと、言ったでしょう」

 消え入りそうな声色で、トバルカインは床で砕けたシャーレを見下ろした。
 月光を受けてきらきらと煌めく破片は綺麗だが、実際にもたらすものは害悪そのものだ。大抵の人間は分からず、また理解したとしても羨ましいと笑顔でのたまってくれるだろう害悪。
 結局、どこまでいっても逃れられはしない。
 それでも先程の行動のおかげだろう。ざわつく嫌な感覚は既に消え失せていた。
 せいぜい気休めにしかならないだろうが、何もしないよりは余程いい。

「――……っ、!」

 ほっと安堵の息を吐こうとして、トバルカインが瞠目した。
 己が壊したシャーレのことなどどうでもいいように踏みつけて扉へと向かう。扉を潜り廊下へと出れば、閉めることもせずに小走りで廊下を進んだ。
 ようやく安心できる、と思った矢先にトバルカインが感じ取ったのは何かの物音だった。扉や壁などを隔てている所為で小さくなり、聞き逃していてもおかしくないほどの音。
 それの出所であろう部屋へと向かい、他の部屋と変わらぬ扉を開け放ち中へと入る。
 トバルカインの寝室と広さも窓の位置も殆ど変わらないが、カーテンがしっかりと閉め切られた部屋。おかげで中の様子はかなり見えづらかったが、トバルカインはまるで全て見えているかのように部屋の中を突き進む。
 ある一点で足を止め、手探りで壁に取り付けられた間接照明の電源を入れる。
 途端に仄かな明かりが室内を満たし、トバルカインは一瞬眩しげに眼を細めた。
 元々そこまで強い光ではない事もあり、すぐに目が光に慣れる。ぱちぱちと何度か瞬きをしてから、彼は部屋の壁に寄り添うようにしている“それ”に口許を緩ませた。

「…………ああ」

 熱を孕んだ吐息のような、安堵のような。奇妙な声を漏らしてトバルカインはその場に膝を着く。

「驚かせてしまったのですね、すみません。何でも御座いませんよ。――ああ、そう動かないでください。危ないですよ」

 身動いだそれを支えようとするかのように両手を伸ばし、壊れ物でも扱うようにそっと触れる。

「大丈夫ですよ、怖がらなくても」

 赤子をあやす時に似た言い方で、トバルカインは眼を細めて笑った。
 目の前に“いる”存在を安心させる為に。
 何かの研究室や実験室に酷似した部屋で、彼は小さく何度か首肯した。

「そう、大丈夫。あなたは何も気に病む事はないんです。…………そうですよね、」

 次に唇から放たれる筈だったものは、司祭の口の中で消えていった。


 闇夜に浮かんだ月はまだ、傾かない。



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