企画

□眠れない夜
2ページ/2ページ


【A side】


「え……?」

暗い道場の扉の前で立ち止まる。
少しだけ空いている入り口から冷たい空気を感じた。

こんな夜中に……誰か、いるの……?

カタン、と軽い音を立てて入り口を開ける。
ハッとした顔で振り向いたのは……。

「乱馬?」
「あかね……どうしたんだよ?」
「乱馬こそ、正座なんてしちゃってどうしたのよ?」

さっき見た悪夢が頭をよぎる、でもそれを表に出さないように平静を装った。

「まあ……目が覚めちまってな。ちょっと頭すっきりさせようかと思ってよ」
「ふーん?珍しいわね、いつも朝までぐっすりなのに」
「たまにはな。おれだって考え事くらいするさ」
「……そう」

神棚をじっと見つめる乱馬の横に座る。
拳ふたつ分の距離、それが今のあたしと乱馬の距離。

「眠れないのか?」
「ん……ちょっとね」
「……考え事でもあるのかよ?」
「……」

探るような乱馬のセリフに、どう返したらいいのか分からない。
必死に言葉を探して自分の足先を見つめていた。

「なあ、気が付いてんだろ?」
「え?」

思わず顔を上げると、乱馬はじっと神棚を見上げていた。
その目は今までにないくらいに真剣で……深い。

「明日、おれの……」
「誕生日よね?」
「……ああ」
「……」
「最近、あの3人が揃いも揃って同じ紙を押し付けてきやがる」
「……知ってるわ」

そう、知ってる。
最初は何かと思ったけど……3人の争いで破れた紙の切れ端を見てわかったの。


“婚姻届”


そう書かれた紙は、自分でも驚くほどにあたしに衝撃を与えた。
あの3人が真剣なんだと、本気なんだと……。

「……どう、するの……?」

爆発しそうな心臓を必死に抑えて、乱馬の目を見ずに尋ねた。

「…………あいつらと名前を連ねる気はねえよ」
「じゃあ……はっきりそう言えばいいじゃない」
「言ってるさ、何度もな」
「……」
「聞きゃしねえんだよ、あいつら。でも……」
「……でも?」


…………ふわり…………


膝の上でかすかに震えていた手に、温かいぬくもりを感じた……。


「……ら、乱……?」
「お前にだけは……ちゃんと聞いて欲しいことがある……」
「な、なにを……?」

いつもの乱馬と違う……。
こういう話をするときはいつもあたしの目なんか見ないのに。
いつも……なにかを言おうとして、やめてしまうのに。

「乱馬……?」
「おれ、おれは……」
「……」

ゆっくりと、でもあたしの目を見つめたままで必死に言葉を繋ごうとする乱馬から、あたしは目を逸らすことができなかった。
言葉はなかなか出てこないけど、その真剣で深い色の目はなにかを必死に訴えようとしていたから。

「おれは……あかねの許婚で、無差別格闘流の跡継ぎで……」
「……うん」

知ってるわよそんなこと、なんて。
いつもは言ってしまうセリフが出てこない。
頷いただけで乱馬の次の言葉を待つ。
あたしも……いつもと違う、かもしれない……。

「だけど、関係ないだろ?そんな……付き合うとか、結婚とか……」
「……」
「だから……おれ、そういうのを全部ナシにしたいんだ」
「え……」

ナシ?
…………無し!?

「それはつまり……」
「……許婚解消、ってことだよ……」
「……っ……」

ゾワゾワゾワ、と体の深いところから何かが這い上がってくる感覚……。

『全部ナシ』
『許婚解消』

乱馬の声に、言葉に、頭を揺さぶられてガンガンと重たい痛みがあたしを襲う。
ぬくもりを感じたはずの手は血の気が引いたように冷たく震える……。

「あ……あた、あたし……」
「あかね」

予想してなかったわけじゃない。
乱馬があの3人もあたしも、誰も選ばずにうちを出て行くかもしれないと。
でも、期待してなかったわけでもない……。

あの3人を突き放してあたしを選んでくれる、と……。

「ば……っか、みたい……」
「あかねっ」

ぐ、とあたしの手にある乱馬の手に力が入る。

「聞けよっ」
「聞いたわよ!許婚解消でしょう!?ここを……うちを、出て行くんでしょう!?」
「だあっ!!だから言ったろ!?ちゃんと聞けよ!」
「ちゃんと聞いたわよ!いいわ、お父さん達にはあたしから……っ!」
「聞いてねえだろっ!」
「っ!?」

突如、背中に回った大きな手。
その手に押されるままにあたしは乱馬の胸へ倒れこんだ。

「乱……っ!?」
「……ったく、なんでちゃんと聞かねえんだよ……」
「な、なによ……まだ何か……」

……強く。
息も出来ないほど強く乱馬に抱きしめられている……。

こんなときなのに、別れ話をしてるのに……身体中で感じる乱馬のぬくもりに、気がおかしくなりそうで……。

「は、離して……」
「離さない」
「なんでよ……なんでこんなこと……っ」

頭を押さえられて鍛えぬいた胸に顔を埋めているから、乱馬の顔を見上げることも出来ない。
だから……期待、しちゃうじゃない……。

「やめてよっ、あんた出て行くんでしょう!?あたしじゃ……ダメ、なんでしょう……!?」
「誰も言ってねえだろ、そんなことっ」
「言ったじゃない!許婚解消だって!」
「だっだからそれは!」
「いいわよっ、ちゃんと聞いたわ!わかったからもう離して!」
「わかってねえ!」

ガバッ!と乱馬があたしの肩を掴んで引き離した。
怒ったような困ったような、そんな顔であたしを見る乱馬。

「なによ……っ」
「許婚は解消だっ!もう関係ねえからな!」
「わかったから……っ!」
「夫婦になりゃ許婚じゃねえ!」
「もうやめっ……………………え……!?」
「違うのかよ!?」
「え……ち、違……わ、ない、けど……え!?」
「…………あ、あれ…………?」

はっとしたように肩を掴む手が緩んだ。
怒ったように真っ赤だった乱馬の顔が、一気に青くなっていく……。

「あれ?おれ……なに言った……?」
「なにって……ふ、夫婦……」
「………………っ!!!」

ギシッ……。
乱馬が石化する音が道場に響く……。

「あ、あの……あのな?」
「う?……うん……」
「あの……も、もっとちゃんと言うはず、だったんだけど……」
「……なにを……?」

いつの間にか、さっきまでの重たい痛みが変わっていて。
あたしの心臓は、とくんとくんと静かに温かく脈打つ。

「おれは……あの3人とは名前を連ねる気はなくて……」
「……うん」
「だけど……」
「……」
「……お前となら、おれは……」
「…………っ!」

思わず両手を握り締めた。

「……あたしと、なら……?」
「……あかねとなら……名前を連ねてもいいかな、って……」
「連ね……“てもいい”!?」
「あっじゃ、じゃなくて!連ね……たい、から!」
「……ふふっ」
「あっ!なに笑ってんだよ!?」

赤くなって青くなって、また赤くなって。
そんな乱馬の変化に、あたしの心が少しずつ温かくなっていく。

「連ねたいんだ?」
「……お、おう……」
「あたしが、いいんだ?」
「……バカにしてねえか?」
「してないわよ……」
「……」

してないわ、バカになんて。
嬉しいの、幸せなのよ……。

「だから、さ……」
「……うん」
「……結婚、しようぜ?」
「……うん………………うんっ!」

……乱馬の顔が涙で滲む……。

「なっ、なんで泣くんだよ!?」
「だって、だって……っ!言ってくれなかったじゃない!今までなにも、一言だってなかったじゃない……っ」
「だからって、なんで……」
「……嬉しいだけよ……ばかっ」
「ばかって……え!?」

きゅっと乱馬にすがりつくと、乱馬の体が硬直した。

……でも次第に……ゆっくりと太い腕があたしを抱きしめた……――






…完…
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ