長編

□想いはどこに(完結)
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【N side】


「は?契約書を?」

土地と家屋の売買において全権をお父さんに任されたあたしは、思わず自分の耳を疑ってしまった。
目の前の男は、一体何を言っているの……?

「だから僕が直々に契約書を作って持ってきた、と言っている」
「へえ?まためずらしいことするのね、九能ちゃん?」
「この件に関しては九能家は関係ない。僕個人の問題だからな」

目の前の男、九能ちゃん。
高校時代のクラスメートで大金持ちのボンボン。
(なんであの父親が金持ちなのか分からないけどね)

そのよくよく見知った顔が、うちを買うと言ってきた。
その契約書を作ってきた、と。

「九能ちゃんのことだからロクな契約書じゃなさそうね。ちょっと拝見しようかしら」
「フン、とっとと見て契約の判を押すことだな」
「判を押すかどうかはあたしの判断よ。黙ってなさい」
「相変わらず口の減らない奴だ」

九能ちゃんから封筒を受け取って中身を取り出す。
最初からじっくりと読んでいく……と、どうにもこうにも認められない記述がいくつも書かれていた。
九能ちゃんらしいと言えば九能ちゃんらしい。

「まずはここ。天道道場の看板を残してフィットネスクラブにする、ですって?なんの意味があるのよ?」
「護身術を学ぶ若い女性に『道場』という肩書きは宣伝になる」
「くだらない。無差別格闘流を軽視されるなんて気分が悪いわ。天道道場の看板は父のものよ。認められない」
「やはりな。仕方がない、諦めるか」

なにが諦めるか、よ。
あたしだって道場の娘なんですからね。
あかねみたいに格闘家として生きてきたわけじゃないけど、それでも家族が大切にしてきたものを守りたいって気持ちはあるのよ。
天道道場の名をくだらないことに使わせるわけにはいかないわ!



そのほか、あまりにも馬鹿馬鹿しい契約内容を一蹴していった。
でも……一番最後。
あたしは目を疑った。
目を擦って何度も何度も読み直す。
けど、やっぱり文章自体は変わらない。

「……まだ諦めてないわけ?」
「僕の勝手だろう」
「……この部分に関してのみ、判断するのはあたしじゃないわ」
「……当然だ」




家に帰る道で、はあ、と自然にため息が出る。
ああまた幸せが一つ逃げていくわ。
全く、九能ちゃんって本当にロクなこと考えないわね。

「お姉ちゃん」
「あら、今帰り?早いじゃない」

アパートの前であかねに声をかけられた。
東風先生とこからの帰りみたい。

「今日は早くに患者さんが引けちゃったから」
「ふうん……」

ただいま、と声を揃える。
場所が変わっても家の匂いって変わらないものね。
ここでもやっぱりお姉ちゃんが作るおいしそうな夕食の香りがする。

「おかえりなさい」
「おかえり、二人とも」

家族が揃う。
5年前とは比べ物にならないくらい、静かな我が家。
たった二人……ううん、妖怪も入れると三人ね。
三人いなくなるだけでこんなに静かになるなんて。

「なびき」
「なに、お父さん?」
「なにじゃないだろう?買い手が付きそうだとか言ってたじゃないか」
「ああ……」

本日、何度目かのため息をついた。
馬鹿な九能ちゃんからの要求をお父さんに……いえ、あかねに伝えなきゃいけない。

「そのことなんだけど、ね……」
「?」

きょとんとあたしを見やるお父さんに、キッチンから夕食を運んでくるお姉ちゃん。
そして、相変わらず無表情で座り込むあかね……。

「あー……買い手ってさ、九能ちゃんのことなのよね……」
「ほう?確かなびきとクラスメートだった……あかねに言い寄ってた?」
「そう、その九能ちゃん」
「お金持ちじゃなかったかい?なんでまたうちなんかを?」
「それが……」

ゆっくりと、九能ちゃんの要求を伝えた。
みるみるうちにお父さんの顔が強張っていく。
あかねも眉間にしわを寄せてあたしの話を聞いた。



「……つまり、あかねとの結婚を条件にあの家に今まで通り天道家で住んでもいい、ってことね」



「そんな契約、出来るはずがないだろう!」
「そうよ、なびき。あかねは道具じゃないのよ?」
「わかってるわよ。それでも九能ちゃんが書いてきた契約書にあかねの名前が明記されている以上、やっぱりあかねに話を通さなきゃいけないと思って」

真っ赤な顔で怒りを露にしてお父さんが立ち上がった。

「あかね!今すぐ断りなさい!あかねを使ってまで家なんぞいらん!」

眉をひそめてあかねは何事か考えているようだった。
しばらくそうして俯いていたあかねがため息をついた。



「……いいわ、九能先輩と結婚する」
「「「な……っ!」」」



冗談じゃない、と。
そう言うと思っていた。

「あかね!家のことなんて考えなくていいんだよ!?」
「あかね……」
「あかね、本気なの!?相手はあの九能ちゃんよ!?」

あかねはあたし達から目をそらしたまま、自嘲気味に笑った。

「それで家が戻るなら……」
「あかね!家なんてどうでもいい!わたしは娘をそんな風に使いたくな……」
「いいのよっ!!!」

お父さんの言葉を遮るように叫んだあかねに、あたしたち三人は思わず口を閉ざした。
俯いた顔は、前髪で隠れて表情が見えない。
見えない、のか……それとも見せたくないのか。

「あたしはどうせ結婚なんて、する気なかったもの……もうなんだっていいわ……」
「あかねちゃん、もっと自分を大切に……」
「誰のために?」
「誰、って……」
「あたしはもう一生、好きな人と一緒になんてなれないから……」

お父さんも。
お姉ちゃんも。
あたしも。
何も言えなかった。
でも、きっと全員が気が付いた。



あかねは一生、彼を……乱馬くんを、胸に抱えて生きていくつもりだ。



「……でもお姉ちゃん、返事するのはちょっとだけ待って。ちゃんと気持ち、固めたいから……」
「……わかったわ」

あかねの声が震えていることに気が付いたけど、それには触れないほうがいいと思った。
あかねが一度決めたことを簡単に覆すことはない。
そんな性格は誰もが知っている。

本当はそんなことをさせたくはない。
だって九能ちゃんよ!?
あの変態に妹を任せるなんて、考えただけでも虫唾が走る!



……それでも、あかねが決めたこと。
あたしには……止める権利はなかった……。
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