series

□蘇生
1ページ/1ページ

 ぽろりと溢れた涙を見て、人は何故生きているのだろうか、などとくだらない事が頭を過ぎった。

「一八さん、私死にたいです」

 一八さんの足元に座り込み、ぼんやりと呟いた。彼は一度だけ私に視線をくれたけど、すぐにデスクの何かの書類に向き直る。多分、彼の息子である風間 仁の資料ではないかと私は踏んでいる。それにしても、仮眠室にまでデスクを持ち込むなんて、サディステックなのかマゾヒスティックなのか分かりゃしない。(本質はサディストなんだろうけど、それを自分にまで向けてはマゾヒストみたいだ)

 見知らぬ青年より優先順位が低く、無視されてしまった私は仕方なく一八さんの足元から離れ、キングサイズの白く清潔なベッドにぼふりとダイブした。私はお日様の匂いがする布団が好きなのだが、このシーツから感じられる匂いはなく、ただ冷たい。何もかもなくてただ冷たいだけなんて、まるで死体みたい。シーツの死体。あ、この場合はベッドの死体だろうか。

 体を起こすのが何となく面倒臭くて、ベッドに俯せたまま靴をズリズリと脱ぐ。ごとん、と案外大きな音を立てて片方の靴が落ちた。続いてもう片方も落ちる。普段なら靴を揃えるのだけれど(と言うか普段は行儀よく靴を脱ぐのだが)、そんな事すら億劫でそのまま死体の中に埋もれた。

 暫く壁の模様を眺めていると、またぽろりと涙が溢れてシーツに小さな染みができた。後ろで一八さんの小さな溜め息が聞こえた。私の名前が至極面倒臭そうに呼ばれた。

「どうした」

 私と一八さんは親子程年齢が離れている。アンナさんから聞いた話では、彼の息子よりも私の方が2つ年が若いらしい。つまり、私から見れば一八さんは父のような存在なのだ。(私は父親というものを知らないが、多分こういう事なんだろう)

 ところがどっこい、私たちはそんな純粋な関係じゃない。私たちは体の関係を結んでいる。年の差とかそういう問題でもないだろうが、私と一八さんを繋ぐ絆を語るには肉体関係なくしては語れない。絆と言っていいものかすら分からない絆ではあるが。

「ごめんなさい」

 一八さんが面倒臭い女が嫌いな事はよく知っている。私は彼に嫌われたくない。私の全てである彼に嫌われては私はこの世界で立っていられない。衣も食も住も全て与えられて彼に飼われている私が、今更一人で生きていける筈がない。いや、それ以前に、私は彼の愛情がなければ死んだも同然なのだ。

「誰が謝罪しろと言った」
「ごめん、なさい」

 再び聞こえた溜め息に、自分の体が面白い程跳ねるのが分かった。

「どうしたい」

 シーツの中から顔を出し、一八さんを見上げる。いつの間にかベッドの脇に立っていた彼の赤い瞳が私を射抜く。言葉が出てこない。思わず顔を伏せる。

「ご、めんなさ、い」

 ぽろりと涙が溢れた。どうして泣いているのか分からない。ただ、頭の中を死にたいという言葉がぐるぐる回る。いや、私はただ死ぬことは望んでいない。私の行動原理はいつだって単純だ。

 もう一度謝罪の言葉を口にしそうになった時、一八さんの溜め息がまた聞こえてきた。

「寝るぞ」
「えっ」

 振り返ると、一八さんもベッドの上にいた。そのまま体を引き寄せられる。温かみのある一八さんの体に、あぁこの人は生きているんだなぁ、と思った。

「一八さん、私一八さんとなら生きていけます」
「…寝ろ」

 冷たかったシーツはいつの間にか温かくなっていた。


[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ