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□The storm came over suddenly.
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 今日一日、絶対にドアを開けるな。

 心底苦々しい顔で唸るように一八さんは私に言った。

「いいか。たとえ俺やアンナが来たとしても開けるな。分かったな」
「え、えぇと、はい、誰が来ても絶対に開けません」

 いつも以上に強い口調に、慌てて首を縦に振る。一体何があるのかは知らないが、彼がここまで強く言うのだからそうした方がいいのだろう。今日の食事は用意できないとの事で、どうやらあのほとんど使われていない冷蔵庫から作らなければならないようだ。

「ところであの、今日は一体何があるんですか?」

 確か昨日の時点では特別な用事はないとアンナさんが言っていた筈である。という事は、今日になって何か用事のようなものができたのだろう。その用事とこの部屋のドアがどんな関係を持っているのかは分からないが。

 一八さんは私の質問に何か答えようと口を開いたが、すぐに閉ざしてしまった。そしてもう一度口を開いて、なんでもないと言う。私に言いたくないのか、言わない方がいいのか、言っても意味が無いから言わないのか。彼が言わないなら私もそれ以上聞かない事にする。

 何度も念を押す一八さんの勢いに少し仰け反りながら頷く。彼がここまで私に何か強く言った事も、迫った事も記憶にない。かなり珍しいと思う。

「時間は大丈夫なんですか?」
「む」

 いつもなら既に部屋からいなくなっている時間を指している時計を一睨みし、一八さんはもう一度だけ念を押すとやっとドアノブを掴んだ。

「大丈夫ですよ。今日一日は誰が来てもドアは開けませんから」
「あぁ」

 手を振って送り出してから、もう一度ベッドに潜り込んだ。

 抜け出したままの少し乱れたシーツには、一八さんの匂いが微かに残っていて気持ちいい。まるで抱きしめられているような錯覚すら覚える私は、だいぶ来るとこまで来てしまったのではなかろうかとも思う。

 気持ちのいい匂いに包まれたままうとうとしていると、二度寝という誘惑の波が押し寄せ、朝の清々しい光を最後に瞼を閉じた。



 それからどれ程経ったのか、不意に響いたノックに微睡みの淵から掬い上げられた。辺りを少し見回し、今は何時くらいなのだろうかと考えた。頭元にあった時計を覗くと、どうやら随分長く寝ていたようで、すっかりお昼時である。

 再びノックの音がした。

 先程より控えめなそれに、朝のやりとりを思い出す。そうだ。彼は決してドアを開けてはいけないと言った。

 二度目のノック以降沈黙を守っているドアを見つめる。一八さんがあそこまで言うのだから、恐らくこの階に誰かが上がってくる事自体制限してそうなものだが、果たしてこの外側にいるのは一体誰なのか。

 首を擡げた好奇心が、覗き穴を見るくらいなら大丈夫だと囁く。一八さんもドアを開けてはいけないと言ったが、誰が来たかを確認してはいけないとは一言も言っていない。自分をそう納得させ、そっとドアに近付いて外の様子を窺う。

 外にいたのは見知らぬ男の人だった。20か30そこらの男の人はスーツの上からでも分かる、しなやかな筋肉を身に纏っている。ほんのりと紫がかったように見える銀色の髪は、男の人のものにしては手入れが行き届いているらしく、廊下の照明の下で艶やかに輝いている。形のいい唇は緩やかなカーブを描いており、優しげな微笑みを湛えていた。

 綺麗な人だと思った。ぱっと見た様子では特に危険物を携帯している風ではなかった。

「君が一八のお気に入りかな?」

 一八さんの知り合いだろうかと考えを逡巡させていると、物腰の柔らかい声が聞こえた。すぐに外の綺麗な男の人の声だと思い当たった。一瞬返事をするか悩む。

「えぇと、どちら様でしょうか?」
「あぁ、失礼。私は李超狼という者で、一八とはちょっとした知り合いなんだ」
「一八さんのお知り合いですか。それで、あの、失礼ですけど、李さんはどういったご用件でいらっしゃったのでしょうか?一八さんは今は不在ですが」
「そう警戒しないで欲しいが、多分一八の事だ。このドアを開けるな、と言われているんだろう」
「えぇと、すみません」

 相手の苦笑姿が目に見えるようで、少し申し訳なく思う。李さんの溜め息が聞こえてきて、もう一度謝った。

「ふむ、私としては君と面と向かって話したいのだが、その様子だとここを開ける事はできなさそうだ」
「すみません」
「謝る事じゃない。…そうだな、このドアから一番遠い壁に手を付いてもらってもいいだろうか。できればこのドアの一直線上は避けてもらいたいのだが」
「…こうでいいですか?」

 ベッドの横の壁に手を付け、大きな声で尋ねる。

「ありがとう」

 李さんの声が聞こえた途端、ドアが吹っ飛んだ。ばきり、と蝶番が折れる嫌な音が聞こえた。

 吹っ飛んだドアはそのままの勢いで向かいの壁にぶつかって落ちた。あまりの出来事にただ呆然と落ちたドアを見つめていると、その反対側、ドアがあった場所から男の人が現れた。銀色の髪を揺らしたその人は、先程覗き穴を覗いた先にいた人と同じ格好しており、直ぐにその人が李さん本人であると気付いた。

 李さんもこちらに気付いたらしく、あのきれいな微笑みを私に向けた。

「すまない、驚かせただろうか」
「少し」

 壁際で無残な姿を晒しているドアと目の前の李さんを見比べ、そう返事するのがやっとだった。

「それは申し訳ない。もっと加減をするべきだったか」

 気付かないうちに腰を抜かしてしまったのか、壁に凭れ掛かるように座り込んでいる私に手を差し伸べ、李さんは微笑んだ。先程彼は危険物を携帯していないと述べたが、訂正する。彼自身が危険人物というカテゴリーで間違いない。

「それにしても、一八も趣味が悪い」

 手を引かれて立ち上がった私を、李さんは何か珍しいものでも見るように、頭の先から爪の先まで視線を動かせる。少しムッとする。

「どういう意味ですか?」
「あぁ、君を悪く言った訳じゃあないんだ。ただ、君は一八の息子とそんなに年が違う訳ではないんだろう?」
「…確か、二つ違いだったと思いますけど」
「つまりだ。父親と娘と言える程、君と一八は年が離れている」
「不釣り合いだと言いたいんですか?」

 李さんは肩を竦めた。

「要約すればそういう事さ。あれに君みたいに若くて綺麗な花はもったいない」

 沈黙。

 綺麗な花?

「………えぇと、あの、すみませんけど、どなたのお話をされていますか?」
「君だが」

 沈黙。

「…初対面の方に失礼なのは承知で言わせて頂きますが、李さんの目は多分節穴だと思います」
「そうかな」
「はい。絶対そうだと思います」
「ふむ、だとすれば、節穴なのは君の目だね。君はとても魅力的な女性だ。だからこそ一八がああも執着する。分からなくもない話だ」

 そう言って李さんは私の腕を強く引いた。視界がぐるりと回り、かと思うとぼすりと何かに柔らかく包まれた。それがベッドだと気付くのと、李さんが私の上に乗っている事に気付いたのは同時で、更にその体制がかなり危険なものである事に気付いたのは、それからたっぷり一秒してからだった。

「李さ、ん?」
「君はもう少し危機感を持つべきだ。一八が君をここに閉じ込めておきたくなるのも、分かるな」
「ひゃっ」

 言い終わると同時に額に唇を寄せられ、驚いて首を引っ込めた。彼はその様子が面白かったのか、喉で笑っている。

「そう怯えないでくれ。私は一八とは違う。流石に親子程も年の離れた女性を、ましてや未成年を相手にするのはまずいだろう」

 そう言って私の上から退いた李さんの言葉に何か引っかかる。

「…親子、ほど?え、李さんっていくつですか?」
「私は一八とさほど年齢は離れていない。確か一つしか変わらなかったのではないかな」

 その言葉に驚愕した。目の前にいる李さんはどれだけ多く見積もっても三十代前半だ。もしかすると二十代でも十分通用するのではないかと思う程若々しい。それが一八さんと一つしか変わらないとは一体どういう事か。

 唖然として彼を見上げていると、不意に部屋の外が騒がしい事に気付いた。

「おっと、一八が私の事に気付いたみたいだ」

 楽しげに李さんは微笑む。

「李が一八によろしくと言っていたと伝えて欲しい」
「え、あ、分かりました」
「君はもっと自分の事を知るべきだ。君は十分綺麗だよ」

 壊された入り口を潜りながら、李さんは最後にそう言って視界から消えた。

 暫くすると、一八さんが朝以上に苦々しい顔でやってきて、私の姿を見るなり名前を口に出した。

「何もされていないだろうな」

 噛み付くような勢いで一八さんはそう迫り、ここで私が何かされたと言った場合、李さんを殺しに行きそうだという事を容易に想像させる程の殺気を滲ませている。先程のベッドでのやりとりが一瞬頭を過ったが、すぐに何もなかったと答えた。

「えぇと、李さんが一八さんによろしくと言っていました。後は少し話をしただけで、何もされませんでしたよ」
「…そうか」

 見る見るうちに無口ないつもの一八さんに戻っていくのを見て密かに胸を撫で下ろす。それにしても、

「心配してくれたんですか?」

 見るからに取り乱していた先程の姿を思い出し、こっそり訊ねてみた。一八さんは無言だったが、どうやらそれは肯定と取っていいらしい。

「ありがとうございます」

 今度李さんに会う事があれば、彼にもお礼を伝えなければいけない。こんな一八さんを見れたのは、彼のおかげと言っても過言ではないのだ。


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