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□深海に見た光の粒
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 ふと夜中に目が覚めた。それはとても唐突であったにも拘らず、睡魔の手が追い縋る前に私を眠りの底から掬いあげた。夢の中で何をしていたのかすらはっきりと覚えたまま目が開いたものだから、一瞬夢の続きかと思った程だ。

 当然部屋に明かりは灯っておらず、ただ窓からの白い月明かりが辺りを柔らかく照らしている。まるで海の底にいるような暗く黒い青に染まった部屋は、少しだけ浮世離れしたようにも感じる。

 背後で布が擦れる音と小さな呻き声が聞こえた。肩越しに後ろを振り返ると、とてもよく見慣れた一八さんの顔がある。

 思わず彼の名前を口にしかけて、どうやら彼は眠っているらしいという事に気付いてすぐに口を閉ざした。彼は少々神経質なところがあるのか、普段であれば私が起きれば目を覚ます。しかしそれでも起きなかったという事はとても疲れているのかもしれない。それを私の声で起こしてしまうのは、とてもではないが忍びない。

 小さく息を吐き出して、できる限り揺れないように体を一八さんの方へ向けその横顔を眺める。

 いつもであれば周りの者を威嚇するかのように鋭い赤の瞳は瞼の向こうに隠れている。以前、それは彼の力を示すものなのだと彼自身から聞いた事があるが、私にはよく分からない。アンナさんの話では悪魔の力がどうとかいうものらしい。なんでも羽が生えるのだとか。少し見てみたいような気もしないではないが、恐らく彼の性格から考えて意味のない事はしないだろう。残念ながら。

「………」

 不意に一八さんの唇が震えた。いつもよりも和らいでいた眉間にきつく皺が寄る。恐らく息子の風間 仁の夢でも見ているのだろう。とは言っても、それは親子の平和な夢ではない。彼らの仲は親子であるが故の強い殺意で結ばれているのだ。彼らは夢の中でさえも殺し合っているのだろう。

 彼らにとって愛する事とは憎む事であり、憎む事は愛する事なのだ。だからこそ憎み殺し合うのだろう。そうでなければ自己の遺伝子を自らの手で壊すことになる。実際はその通り自然の理に反した行動であるが、高度な精神活動を持つ人間ならばより複雑な回答があってもおかしくはない。

 では何故彼らは愛を憎悪へ変え、殺し合うのか。それはつまり複雑な回答の中に答えがあり、複雑であるが故にその回答を持ち合わせぬ他人には理解の及ばぬものなのだ。

 例えるなら人と蟻だ。いや、敢えて蟻だけに限りはしない。犬でも猫でも構わない。どちらにせよ人以外の生き物という点では変わりはしない。つまるところ、本能で生きるものと理性で生きるものの違いという訳である。

 人間は蟻が何を考えて花に群がっているかなんて生態という観点からしか観察できないし、蟻も人がどんな思いで花を手折りその香りを楽しんでいるのかは理解できまい。そもそも、思いという概念すら彼らは理解できていないだろう。これは生きている世界が違うからであり、そのために持ち合わせている回答も大きく変わってくるからである。一輪の花を見た時に考えた事が大きな溝になるのだ。

 だからこそ私のような平凡な(平凡とは言えないかも知れないが)人間が、彼らのような特別で違う次元に存在する者を理解できる筈がなく、また彼らも平凡な人間が考える事など理解できないのだろう。私と彼らでは決定的に全てが違う。唯一、たとえ生きる次元が違えど同じ人間であるという事くらいか。

 けれど、と思う。

 この話は彼らがより理性的な精神に偏っているという事が前提である。逆に、より本能的な精神に偏っていた場合はどうだろうか。

 つまり、互いを愛するという過程に至るより以前にそれを困難にする何かがあり、その困難とは自己を維持する事に支障、ないしは脅威となり排除せねばならないものである。

 これには少し心当たりがある。それは一八さん自身でありその息子の風間 仁である。

 三島の者たちは皆互いを憎み傷付け合ってきたとアンナさんから聞いた事がある。この原因を自己防衛本能であると考えれば納得がいく。遺伝子を残す事はあらゆる生物の究極の生存本能であるが、しかしその残した遺伝子が己より強く、自身の存在自体を危うくするものであったならどうだろうか。もう一つの強力な生存本能である自己防衛本能が生存の危機を感じ取ったならば。当然本能に従い危険因子は排除されるだろう。この場合、排除されるのは自ら残した遺伝子の持ち主である。

 しかし勿論排除される側も大人しく消される訳にはいかないだろう。彼には既に命があり、また生存本能がある。彼には彼の自己防衛本能が働くのだ。

 結論からすればその二つの個体がぶつかり殺し合う事になる。本来ならば有り得ない。そもそも残された遺伝子に危機感を感じる事自体が異常なのだ。

 推測で述べるなら、恐らく遺伝子にその事が伝えられているのかも知れない。より強い者が生き残るように。

「(よく分からなくなってきた。きっと私のちっぽけな頭では及びもしない事なのかも知れない。…けれど本当にどうして、理解しようとしないんだろう。仁という人は、私とは違って一八さんと血の繋がった人間なのに。同じ次元の人間なのに)」

 私から見れば、件の仁という人は一八さんの事を真に理解できる唯一の人間の筈なのだ。私などでは到底及びもしない考えを持つ一八さんと肩を並べる事ができる人物。私が欲しくても手にできないものを持っているというのに、けれど彼はそうしない。できないのではない。しない、のだ。彼さえ一八さんの事を理解してくれれば、そして彼の存在を脅かさなければ、きっとこの世界はもっと平和になっただろうに。

 いや、例え世界が平和にならなくとも、一八さんの日々はもっと平凡なものになった筈だ。家族という世界を守り、その中で幸せな時間を感じるのだ。少なくとも、私の様な得体の知れない子供を飼う事はなかったに違いない。

「………」

 規則正しく聞こえてくる寝息に耳を傾ける。落ち着いた深い呼吸に、自然と私の呼吸もゆっくりと深くなる。ゆるゆると再び忍び寄ってくる睡魔が瞼をそっと閉じる。

「(私はこんなにも、貴方の事を理解したいというのに)」

 暗く深い深海の海に、沈む彼らの姿を見ような気がした。


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