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□誠の愛
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 自宅に帰る時間が惜しい時や、ただ単に何かと慌ただしい中で仮眠を取る時には、一八は本社に用意している仮眠室で休息を取る事が多い。とは言え、最近こそ、まるで自宅かのようにその部屋に通ってはいるが、以前は休息を移動時間に取っていたりしたのであまり使う事もなく、からっぽの部屋である事が多かった。

 部屋には当然鍵が掛かっているが、生体認証で登録されている一八を認識するや否や、カチリと鍵の外れる音がし、ノブを回せば簡単にその入口を開いた。

 一八はいつものように無言で踏み込む。音はなく、部屋も暗い。それも当たり前の事で、今は草木も眠る丑三つ時だ。

 柔らかな絨毯の感触が靴を通して伝わってくる。足音を柔らかく踏み潰しながら部屋の奥、人が二人並んでも余裕のありそうな大きなベッドの元へ歩いていく。

 ベッドには山が一つできていた。その山はゆっくりと、しかし規則正しく静かに上下している。シーツの端から飛び出した寝顔は、女と呼ぶにはまだあどけなさの残る少女のそれである。

 一八はそれを一瞥し、踵を返した。ベッドの反対側の、部屋の奥側にあるテーブルに向かっているらしい。途中で着ていたジャケットを脱ぎ、ベストを脱ぎ、シャツとパンツだけのラフな格好になる。

 脱いだものを備え付けの椅子に引っ掛け、ふと視界に入った普段はない物がテーブルの上にある事に気付いた。青い小さな花がいくつかまとまって咲いているものを活けてある、黒っぽい色合いの花瓶が、幽かな月明かりに濡れながらテーブルの真ん中に静かに立っている。

 見慣れないものではあるが、これが誰からの贈り物だったかはよく覚えている。あの少女からのものだ。彼女が一八以外で慕っているアンナという女に頼んで買ってきてもらったのだと、そう言って愛らしい笑顔と共に差し出されたのは、ここに活けてある花と同じ青い小さな花の花束だ。花の名前は何と言ったか。

 手を伸ばしてその小さな花たちを一本抜き取る。深く息をすると、甘く爽やかな香りが肺を満たした。ここ暫く感じた事のない自然の香りだった。

「…一八、さん?」

 小さく掠れた声がした。振り返れば、先程まで眠っていた少女が眠たげに微睡んだ瞳でこちらを見つめている。癖のある黒く長い髪は乱れ、一八が以前買い与えた黒くゆったりとしたネグリジェのリボンも解けて胸元が肌蹴、白い肌がぼんやりと薄闇の中に浮かび上がっている。

「今日はこちらでお休みに?」

 先程よりは幾分はっきりとした口調ではあったが、しかしまだ睡魔の手からは逃れていないらしく、ともすればそのまま再び瞼が落ちてきそうな様子だ。

「あぁ」

 再びベッドサイドまで戻り、返事ついでにその柔らかな唇に噛み付く。何度か角度を変えれば、次第に苦しげなくぐもった声が漏れ始め、一八の腕に少女の細いそれが絡み付いた。それをベッドに抑え付け、胸元に顔を埋めようとした時、依然としてあの小さな青い花を手にしたままであった事に気付いた。忘れ去られてしまっていた花は無残に萎れており、僅かに一輪が花弁を誇っているのみである。

「…勿忘草、だったか」

 ふと漏らすように一八が呟いた。その花の存在に彼女も気付いたらしく、何かを探るように一八の顔を見上げる。

「一八さん、それ…」

 少女の言葉が全てを紡ぐ前に再び一八のそれが重ねられる。次第にそれは下へ下へと下がり、彼女の細く白い首に鋭い牙を突き立てた。少女の呻き声が漏れ出す。するりと一度少女の耳元を一八の手が掠め、次の瞬間には両腕は柔らかなベッドに縫い止められていた。

 ふっ、と一八が短く息を吐き、小さな体を組み敷いたまま上半身のみを起こす。上気した潤んだ彼女の瞳に彼の姿が映り込んだ。闇の中に爛々と光る赤い瞳はまさに悪魔のようだ。

「言うようになったものだ」

 くつくつと喉の奥で一八は笑い、彼女の腕を抑え付けている方とは逆の、遊んでいた右手で彼女の頬を撫でる。普段とは違う優しげな手付きに、彼女は明らかに困惑している様子だった。

「その花の意味、誰から聞いた」

 ややあって、少女の唇が震えた。

「自分で、調べました」

 この部屋にはネットに繋がったPCも置いてある。調べようと思えば調べられるだろうが、この少女にPCの知識があるとは思えない。誰かから教えられたのだろうが、その誰かは訊かなくとも手に取るように分かる。彼女が慕っている人間は一八を除けばただ一人だ。

「そうか」

 小さく呟き、少女の体を見下ろす。彼女の耳元に飾られたたった一輪だけの小さな花は、髪も服も乱れた少女によく似合っていた。

 忘れるなと縋り付くその花は、確かに彼女自身のようにも見えた。

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