今日は何の日かという事だ。 隙間風が入る六畳間の角でひっそりと時を刻む旧式の時計を見遣ったのは、実に二分ぶりのことである。傍らに小僧共のどんちゃん騒ぎが収拾しない。 休暇は生徒と変わりなく頂戴できていた。職場には何の不満もない。信頼できる上司、気の置けない同僚、可愛がっている部下もいる。生徒は手が掛かるが目に入れても痛くない。総じて天職だ。私は所帯がないので町外れの長屋に家賃の元を取りに行く。きり丸が同伴しているのは一身上の都合だ。 暫くは自堕落な生活を送っていたのだが、程無く彼はアルバイトに精を出し始めた。私の働きもあってか売上は上々らしい。それも慣れると、今度はは組の連中が私の家に居着くようになった。友人が多いのは悪いことじゃあない。身寄りのないきり丸にこうして仲間を迎え入れる家があるのは素晴らしいことだ。ああ、いけない。自讃したいわけではないのだ。 「乱太郎、親御さんが心配しているんじゃないか?」 「土井先生のところにいると言ってあるので平気です」 「しんべヱは?」 「みんな南蛮に行ってるの」 「虎若に団蔵、喜三太は?」 「大丈夫でーす」 「そうか」 安堵とも困憊とも取れる相槌を打って、私は部屋を後にした。 引き戸を開けると外は静まりかえっていた。吐く息は白い。両の二の腕を抱きしめる掌は凍りついてしまっていて、溜息を掛けたところで暖を取れるはずはなかった。随分と感情的に、無計画で飛び出してきてしまった。防寒のなっていないこの身一つでは、麓の冬はひとたまりもない。だからと言って、部屋に戻っては大人げなくなってしまうに違いなかった。 「はあ」 行く当てが無いわけではないが、時刻は疾うに丑三つを回っていた。こんな夜更けに子供たちを置いて遠出するわけにもいかない。三時間くらい、近所を散歩して来ればいいのだろうか。それでは私を探すのに苦労してしまうだろうか。兎にも角にも羽織がいる。やはり一度部屋に戻って―――。 「先生」 ぽふ、と毛羽立つような音を立てて何かが覆い被さって来た。足元が明るいから誰かが外に出て来たのだろう。囲炉裏の熱が、僅かながら逃げている。私のお気に入りの羽織。辛うじて腰にまわっている細い腕。背中では目鼻立ちのくっきりとした色男のそれが、羽織の真綿を押している。 「何してんすか」 「きり丸」 「風邪引きますよ」 徒に早鐘が鳴るのを誤魔化したい。振り向いて、髪癖の素直な紺を掻き回すようにぐしゃぐしゃと撫でた。 「酔いを冷ましてたんだ。きり丸こそどうした」 「先生を探しに来たんすよ。羽織も着ないで、死ぬ気ですか」 「すまない」 「乱太郎たち帰るってさ」 「ああ」 「先生」 羽織の裾を引かれる。きり丸は顔を上げて、一瞬よろめいてから屈んだ私に強引に接吻をした。刹那、触れた口唇がやたら暖かかったので、屋外で、壁の向こうに教え子がいるシチュエーションを俄然意識してしまって、顔中が火薬を散らしたように火照り出す。年甲斐もなく慌てふためく私に、きり丸は涙を溜めてこう続けた。 「ごめんなさい」 「何がだ」 「記念日だったっすよね。二人っきりになれなかったこと、怒ってます?」 「別に」 「怒ってほしいんすよ」 「は?」 「俺ばっかり先生のこと好きで、先生が他の奴と話してんの見るとむかつくし、もう大赤字っす」 「だからこんなことを?」 「はい。は組のみんなに無理言って来てもらいました」 「餓鬼だな」 「餓鬼っすよ。これは、その、餓鬼なりのお詫びっていうか」 「元結?」 「お揃いです」 きり丸が額を真っ赤にして髻(もとどり)を指し示す。掌と揃いの、鴨川組の綺麗なそれは単色でありながら作りが凝っていて趣味がいい。彼が金にならないものを作るとは到底思えないが、髪結い道具に大枚を叩くとも思えない。手先が器用なのは折紙付きだ。 「っふ」 「なんすか」 「っふふふ」 「なんすか」 「っふ、ふははは」 「なんなんすか」 「はは」 「んもう、なに笑ってんすか」 「怒ってやる」 「え?」 「怒ってやるよ」 「やる!?やるって何を!?何をくれんすか!?」 「私をだこのどケチ」 私はこの十五も離れた児に頸っ丈である。 end. |