過去拍手
□何気ない日の風景
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「おはよ――」
リビングの扉を開けたジョセフは、テーブルに座って新聞を読んでいるシーザーに掠れた声で挨拶を呟いた。
「おう」
返ってきた短い返事を聞きながらジョセフはのっそりとした歩みで部屋の真ん中にあるテーブルへ近付いていく。
独り暮らしの1DKにある背の低い小さな机は、リビングテーブルであり、食卓であり、試験前には勉強机にもなる優秀なヤツだ。
「珍しく早いな」
「ん――、なんか目が覚めちゃって」
まだ眠気の残る目を擦って答えると、ジョセフはシーザーの座る場所の側面に腰を下ろした。
ここ数日で外の空気が一気に低くなった。秋も本格的な気配が濃くなり、殺風景なシーザーの部屋もようやく先日こたつが解禁されたばかりだ。
「あったかぁ……」
掛布団をめくって足を差し込んだ先に待っていた柔らかな暖かさに安堵の息をつく。
体全体を布団の下に潜り込ませるようにして机の上に突っ伏したジョセフの頭を、シーザーが閉じた新聞で軽く叩いた。
「行儀が悪い」
「だってぇ………… ぁ、」
叩かれた箇所を撫でていたジョセフは、小さく声を漏らすと頬擦りしていたダークグレーの天板から顔を上げた。
シーザーに注意されたのが理由でないのは、起こしたのは顔だけで前屈みに丸まった体がそのままなことから用意に想像がついた。
「?どうした」
「鼻水が……。シーザー、それ取って」
くぐもった声でそう告げると、布団から出した手で向かい端に置かれたティッシュを指差した。
シーザーはしばらく無言でジョセフの顔を睨み付けた後、ティッシュケースに腕を伸ばす。
そして黙ったまま掴んだ箱をジョセフの前に突き出した。
「サンキュー」
無言の嫌味もジョセフにはどこふく風だった。
差し出されたケースからティッシュを一枚抜き取り盛大な音を鳴らしながら鼻をかむ。その姿に諦め顔でシーザーはケースを元の場所に戻した。
「あ――――スッキリした!」
まだ少し鼻にかかったような声のジョセフはかみ終わったティッシュを手で丸めた。
手の中でクシャクシャになったそれを見ていた目が、部屋の角にあるゴミ箱に注がれる。
六畳しかない小さなリビングではあったが、中央のこたつから隅に置かれたゴミ箱まではどんなに手を伸ばしても届かない。
ごみを捨てるためには、一度立ち上がって自らゴミ箱へと近づかなければいけなかった。
「よっ……と」
「!!」
ジョセフは自分の座っている場所からゴミ箱へとのびる距離をちらりと確認すると、まるでそれが当たり前のように手にしていたティッシュを放り投げた。
ジョセフの手から離れたティッシュは、きれいな放物線を描いて部屋の宙を舞い、ベランダに繋がる大きな窓ガラスの横に鎮座した黒い小さなゴミ箱へと向かって飛んでいく。
「あっ!」
ティッシュの落下する場所を目で追っていたジョセフが小さく叫び声を上げた。
勢いよく飛び出したティッシュが予想より早く落下速度を落としたからだ。
やばい。
このままではゴミ箱に入らなかったティッシュを自己回収しにいかなければならなくなる。
失敗したゴミを拾いに行くのは、普通にゴミを捨てに行く場合より倍以上ヘコむのだ。
(がんばれ!)
胸の内でエールを送りながら、ジョセフは飛行を続けるティッシュを見守った。
ジョセフの祈りを一身に受け、儚げな白い身に向かい風を受けながら健気に飛び続けるクシャクシャのティッシュ。
必死の祈りが天に通じたのか。
目標より手前で落下してしまうように思われていたそれは、予想に反してなんの問題もなく暗いゴミ箱の中へと吸い込まれた。
「よぅっし!!」
思わずガッツポーズを作ったジョセフは満足気に笑いながら視線を元に戻す。
首を回して再びこたつに移した視線が、不機嫌オーラ全開のシーザーの視線とぶつかった。
いつもは爽やかな優しい空気の碧い瞳が、信じられないものを見たと言いたげに歪んでいた。
その瞳は明らかに先程の行動を非難していた。なのに口での苦言を一言も発しない。
ただじっと有り得ないと語る視線をジョセフに注いだまま固まっていた。
「……ぶ、ははっ!」
シーザーの視線を受け止めていたジョセフが突然、腹を捩って笑い転げだした。
「っ、お前、なにが可笑しいんだ!俺は怒ってるんだぞ!?」
「あはっ…… ごめ、でも……なんか…… ブフッ!」
突然笑いだしたジョセフにシーザーの眉がつり上がる。
口に出された文句を聞いてごめんと謝るが、ジョセフの笑いはなかなか治まらなかった。
「はぁ…… だって、シーザー…… んな遠慮なく嫌な、顔……」
競り上がる思い出し笑いを必死に吐き出さないようにして耐える。
しばらく俯いて肩を震わせた後、顔を上げたジョセフは満面の笑みを浮かべていた。
「よく分かんねぇけど、なんか…… すっごい幸せだなぁって思ったんだ」
柔らかにはにかむような笑顔でジョセフが呟いた。
下から見上げてくる完全に蕩けきった笑みと微かに潤んだ瞳に、怒りに燃えていたシーザーの表情は驚きに変わる。
目を見開いてジョセフの顔を凝視したまま動かないシーザーに、ジョセフは更に笑みを深くした。
「――――――っ!!」
「?どったの?」
突然テーブルから立ち上がったシーザーに、ジョセフが不思議そうに尋ねる。ジョセフに背を向けたままのシーザーが、やがて絞り出すように呟いた。
「コーヒー…… いれてくる……」
低く囁くような声は、一見すると怒っているようにも聞こえた。
それだけ告げてキッチンへと向かうシーザー。離れていく後ろ姿を不安な様子で見送っていたジョセフだったが、その目があるものを捉えた。
キッチンへ行くためにジョセフの脇を足早にシーザーが通り抜けた一瞬。不自然にジョセフから反らした顔にかかる金色の髪から、淡く染まった頬が覗いていた。
必死に隠そうとしているが、シーザーが照れているのは一目瞭然だった。
「〜〜〜〜っ!」
とたんにジョセフの顔が色を変え始めた。
熟れたトマトのように真っ赤になった顔をシーザーから逸らすと、こたつに顔を伏せて両手で視界を塞ぐ。
火照った頬が熱い。
乱れる気持ちを落ち着かせようと静かに深呼吸を繰り返すが、その口許は抑えきれない嬉しさが滲んでいた。
「――――……」
囁いた言葉は、ジョセフだけの耳にだけ聞こえる音になら言葉だった。
何気ない日常は、数えきれないくらいの幸せと愛しさで溢れている。
了.