過去拍手
□BRIGHTLY SNOW
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「おいシーザー見てみろよ!雪だぜ、雪!」
はしゃいだ声と共に、出窓が開かれる軋んだ音が朝の浴室に響いた。
早朝の冷たい風が目覚めたばかりの体をふわりと撫でていく。刺さるような冷気に、顔を洗っていたシーザーが俯いていた顔を上げた。
「ジョジョ……お前なぁ」
流れ落ちる水滴をタオルで拭いながら声の主に向けるシーザーの視線はひどく不機嫌なものだった。
修行のためにシーザーとジョセフが滞在しているリサリサの館は、窓を開けずともどこからともなくすきま風が流れてくる極寒の洋館だった。
さらに修行の一貫として、二人の部屋のある館の東棟は暖房器具が極限まで取り払われており、今いる浴室も小さな薪ストーブが部屋の隅に一つ置かれているだけだ。
湯を沸かすために備え付けられたそれは、熱源としては限りなく頼りない。
そのため室内はほぼ外気と代わりない温度だった。
そこへ冷えきった海水の上を渡ってきた風を取り込んだのだ。寝起きで体温の調節がまだ整わない体には、まさに地獄のような寒さだった。
「朝っぱらから浮かれてんな馬鹿!寒いから早く閉めろ」
「雪だぜ雪!?これを浮かれずに何に浮かれるってんだよ!」
いいからお前も見てみろよと、シーザーの不機嫌さなど意に介していない様子でジョセフは無邪気に手を振る。振り返ったその笑顔があまりに無邪気で、シーザーはそれ以上の苦言を次げなくなった。
小さな溜め息を口許のタオルに吐き出すと、足をジョセフのいる窓辺へと向けた。
「ったく。ただでさえ起きるのが遅くてギリギリだってのに……」
朝食の席に遅れると文句を垂れていたシーザーだったが、視線を開け放たれた窓の外に向けた瞬間、不機嫌に歪んでいた唇からは声が失われた。
「――――……」
「な!すっげぇだろ!?」
得意気なジョセフの声が隣から聞こえてきた。まるで世紀の大発見でもしたようなその声に呆れながらも、シーザーの瞳は眼下に広がる景色にくぎ付けられていた。
窓の外は、まさに白銀の世界だった。
比較的温暖な気候のヴェネチアでも、冬になれば気温はマイナスを記録する日もある。凍てつく木枯らしに白い雪がチラチラと混ざることもそう珍しいことではなかった。しかし、降るといっても大概が積もることなくすぐ消えてしまう程度のもの。
今日のように屋根や地面が真っ白になるなどという状況は、確かに珍しいことだった。
見渡す限りの雪景色。
古城を改築した館の古い石造りの壁も、真っ赤な屋根も、目に入るすべてが白く染まっていた。
目に差す無垢で純粋な光。
見慣れたはずの館がまるで知らない場所のように映る、ひどく不思議な感覚だった。
「キレイだなぁ……」
隣から漏れた小さな呟きが、感慨に耽っていたシーザーの意識が引き戻す。
まったくもって同じ意見だったが、簡単に賛同するのも癪で、あえて気のない素振りを装った。
「はっ、雪ぐらい珍しくもなんともねぇさ」
素っ気なく返事を返すと、隣から注がれる視線から不機嫌な空気を感じた。ジョセフは今の言葉で気分を害した様子だったが、シーザーは気付かないふりをして外を眺め続けていた。
(少し冷たすぎたか)
わずかに芽生える不安。
窓から流れ込む朝風よりも凍りつきそうな空気に思考が捕われかけた瞬間、ふいにシーザーの頬に温かなものが触れた。
「!」
慣れ親しんだ感触に驚いてシーザーが振り返る。
下ろした視線の先で、ジョセフが悪戯な笑みを浮かべていた。
「初雪を一緒に見たら、キスしないといけないんだぜ?」
頬に手を当て窓枠に身を乗り出したジョセフが呟く。
「宿り木の下の間違いだろ」
しかもクリスマスはずっと昔に終わっている。咄嗟にそう指摘すれば、すぐさま非難を込めた叱咤が脇腹を襲った。
「あんだよー。シーザーちゃんは俺とキスしたくないわけぇ?」
「いや……そんなこ」
「なんて薄情な恋人!もう悲しくて、ジョセフ泣いちゃう!!」
殴られた脇腹を擦りながら返した反論は大袈裟な悲嘆の声にかき消されてしまった。
「朝っぱらからこんなムキムキな野郎とはキスできないって、そう言いたいんでしょ!?くやしぃぃ――――!!
「頬じゃないとこなら、一日中だってお願いしたいがな」
何気なく呟いた言葉に、それまで暴れていたジョセフの動きが止まった。
「ジョジョ?」
顔を隠したまま動かないジョセフを、不思議そうにシーザーが呼ぶが反応はなかった。
様子をうかがって覗き込むと、ようやく顔を背けていたジョセフがこちらを見た。
口元まで下げられた手の隙間から覗く頬は真っ赤に染まっていた。
「信じらんねぇ……朝っぱらからなんてこと言うんだよ……」
「お前が仕掛けたんだろうが」
「うぅ〜〜〜〜反則だっ」
墓穴を掘ったジョセフが大きく溜め息をついた。
微笑みながら見つめていたシーザーはジョセフを背中から抱きしめると、顔を覆う両手をそっと外した。
「今年のクリスマスには、宿り木の下で二人で誓おうな」
優しく囁きながら顔を寄せるシーザーの口を、咄嗟にジョセフの手が押し止めた。
「……もうクリスマスは終わったんだろ?」
ふてくされた瞳が責めるようにシーザーを見つめていた。
「25日の予行練習だ」
「なんだよ、それ――――」
無責任な答えにジョセフが眉を寄せる。苦言を漏らしながら、それでも近づく気配に従うように瞳を閉じた姿に、シーザーは小さく笑みを浮かべてゆっくりジョセフの唇に己のそれを重ねた。
「ン……」
触れた互いの唇は、ひどく冷たかった。
けれどそれすら気にならないほど、胸の内が暖かく満たされていくのを、シーザーは意識の奥底で感じていた。優しくて幸福な感触が、体を満たしていく。
(好きだよ、ジョセフ)
来年も、その次も。
これから先何年経っても。
(12月25日にお前の隣に居るのは、俺であってほしい)
溢れる愛しさを声にならない言葉に委ねて、シーザーは重ねた唇を更に深くした。