短篇書架

□月下に美人
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 忍びにくい夜というやつだった。月が明る過ぎる。下生えに鮮やかさが無くなった地面に、梓の影がはっきりと落ちる。
 四阿は周りを紅葉を始めた低木で囲んである。四阿で憩う者から、この周りは忍びにくい。
 だから、人が隠れているとは考えにくいのだが。
 ・・・・・・あれー。誰もいない?
 時刻は酉三つ時。仙蔵の指定した時間通り。
 四阿に座る者は居らず、寄る者も居らず。
 しかたなく梓自らがそこに座り、持ってきたスケッチの道具を確認する。
 ミシ、と音がした。
 上からだ。
「・・・え?」
 梓が呟いて天井を仰ぐのと、屋根からさらりとなにかが落ちるのは、同時だった。
 月を背に、女人が逆さに梓を見下ろす。
 お、お化け!!
 と、悲鳴を上げなかったのは、それをするだけの余裕がなかったからだった。
 息が吐けない衝撃に棒立ちになっていると、お化けじみた逆さの女人はこう言った。
「あぁ、ようやく来たか。上がってこい」
 仙蔵の声で。
「・・・え?」
「上で描いてもらう。場所の指定くらい構わないだろう?」
 梓の戸惑いは全く酌まれないのか、男声の女人、もとい、女装の仙蔵は淡々と言う。
「この恰好は寒いんだ。さっさとしてくれ」
「は、はい・・・・・・」
 半ば呆然としたまま、梓は屋根の縁を掴む。
 だが、スケッチ道具を掴んだ左手が縁に伸ばせない。
 あ、と間抜けな声がでた。
「どうした?」
 右手でぶら下がっていると、上から仙蔵が見つめ下ろす----彼は完全に女だった。
 冷たい夜風にたゆたう黒髪。月光に白く浮かび上がる整った面。纏う着物の柄が夜目にも鮮やかで、彼が演じる女人にとてもよく似合っている。
 やっぱり、この人だ。この人を描きたい。
 強くそう思ったのと、右手が縁から滑るのは同じタイミングだった。
 がり、とつま先に木を引っ掻く感覚。
 あ、と間抜けな声がでるのは二回目だ。
 浮遊感は、すぐに止まった。
 仙蔵の手が、梓の右手を掴んだからだ。
 しなやかな、力強い手だった。梓の手首を離さんと掴み締める力は、間違いなく男のものだ。
「上れないなら言えばいいだろう」
 呆れているのは言葉だけだった。
 声が、自分を責めている。
 自分は女物の着物でも活発に動けると言うのに、運動能力の低い梓は、四阿の上に上がるのも容易ではないのだと思い至らなかった自分を、責めている。
 ・・・あぁ、あれ、おかしいな
 黒ずんだ屋根の上に引き上げられて、梓は内心首を傾げていた。
 だがなにがおかしいのかはよくわからない。
「早く描いてしまえ」
「は、はい!」
 淡々とした声に促されて、梓は絵筆を執った。




 眼の前にいるのは、梓の知る限り一番の美女だった。絶世と位置づけてもいいくらいだ。
「やっぱり、美人に月は映えますね」
 細い絵筆で紙の上の美女の着物に柄を描きながら、彼女は無意識に呟いていた。
 それに、優雅な姿勢で座り続ける仙蔵は聞き返す。 
「なんだって?」
「え?私、なにか言いましたか?」
「あぁ、はっきりと言ったぞ」
「え・・・動かないでください?」
「全く違う。なんなのだ、お前のその・・・・・・」
 彼は言いかけてやめた。表情が、紙の上の美女と異なっている。もっとも、これはスケッチなのだから優美に描く必要はなかったのだが。
「なんですか?」  
 梓が訪ねるも、答える気配はない。
「気になりますよ?」
「気にするな」
「・・・先輩、肩の所に余計な力が入っています。着物がよれて柄が崩れるので力を抜いてください」
「・・・お前は・・・」
 絶世の美女の表情が陰る。
 かと思ったら、陰ったのは月の方だった。
「・・・・・・」
 梓は空を仰いだ。月を隠した雲は厚く、手許がよく見えない。あと半刻は晴れないだろうか。
「どうした?」
「暗くなってきました」
「描けそうか?」
「いいえ。先輩のお顔がよく見えません。・・・でも、あらかた描けましたから、これでいいです」
 絵姿をひらりと月の消えた空に翳す。全く見えない。けれど、その薄っぺらい紙の上で、絶世の美女が笑っているような気がした。
「ご協力ありがとうございました」
 ぺこり一礼して、真っ直ぐに仙蔵を見つめる。暗がりの中、視線の先に彼は薄ぼんやりとした塊にしか映らない。
「もういいのか?」
「はい、絵を描くのは早いので。これで及第点はいだだけるかと思います」
 仙蔵に絵姿を差し出す。薄ぼんやりとした塊が眼の前まで近づき、それを取っていった。
「見えます?」
「なんとかな。・・・ほう、よく描けているじゃないか」
「ありがとうございます。これで明後日は守られました」
「・・・は?」
 仙蔵が首を傾げている。
「あれ、言いませんでした?この課題が出来なかったら明後日に追加課題が待っているという・・・」
「と、いうことは」
 彼は言葉を切って、絵姿をひらりと突き返した。
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