短篇書架

□月下に美人
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 目の前には、切れ長の黒眸。
 差し出された紙を取ろうと伸ばした手が、どうしてか仙蔵の手中に収まっていた。
「先輩・・・楽しんでいらっしゃいます?」
「よくわかっているじゃないか」
 ぼーっとしているくせに、私のことはよくわかるのだな。そう言って、彼はくつくつと喉の奥で笑う。あまり目立たないとはいえ、男性特有の喉仏が震えているのがよくわかった。
 手を振り払うのは最初から諦めていた。力を入れたとたん、捻り上げられそうな気さえしたから。
「・・・・・・おかしいですね。私は注意力と観察力が足りないはずなんですが」
「私に関してはよく働いていた、ということにはならんか」
「そんなこと言われたら自惚れてしまいますよ。仙蔵先輩のことをひとより知っているのだと」
「お前になら構わん」
「・・・・・・」
 継ぎ掛けた言葉が浮く。もっとも、意図せずものを言う自分のこと、口を噤んで正解だったかも知れない。
 仙蔵の手がすっと伸びて、梓の頬に止まる。その手は思ったよりも冷たかった。
 それに自由な方の手を重ねて、
「・・・・・・先輩の手、冷たいですね」
 ただの感想を零す。不思議と温かいままの梓の手は、たおやかな手に熱を奪われていく。
 じっとしたまま夜気に当たっていた彼は、手だけでなく全身が冷たいはずだ。
 至近距離だからよくわかる。
 いつにも増して色の白い貌が、寒さでほんの少し赤みを帯びている。肩の辺りが強張っているのは、身体が冷えたからだろう。
 そうか。私・・・
「・・・私、仙蔵先輩のこと、誰よりも見ていたんだと思います」
「どうしてだ」
 仙蔵の眼は愉悦の色を浮かべている。問われ、梓はこてと首を傾げた。
「・・・・・・さあ・・・・・・。あ、先輩が目立つから・・・ですかね?」
 サラスト羨ましいです、などと言ってみたが、仙蔵はピクリと頬をひきつらせただけだった。仙蔵の、微かな苛立ちの発露。
 なぜ怒るのだろう。訊かれたから考えうる答えをだしたのに。
 ふと、寒気に襲われ、
「----っきしゅっ!」
 くしゃみひとつ。どうも、梓まで身体を冷やしたらしい。
 冷えますね、とへらりと言えば、仙蔵は脱力したのか手は簡単に離れた。ついでに絵姿を返してもらい、さぁさ、下りましょう、と先に地上に飛び下りる。下りるくらいなら出来るのだ。
「・・・・・・先輩?」  
 やや間が有り、絶世の美女はふうわりと降臨なさった。色鮮やかな衣が、淡い月の光を弾く。着地の足音のなんと静かなこと。まるで天女のようだと思った。
 その一部始終も、眼が離せなかった。目立つ、というのはあまり関係なかったかもしれない。
「梓」
「はい」
 仙蔵が手を伸ばし、梓の顎を捕らえる。
 暗がりに浮かぶ白い影は、ともすると妖のよう。
 薄い朱唇がゆるりと弧を引いた。
 黒眸がひたりと梓を捕らえる。
「よかったな。私のお陰で明後日暇になって」
「暇と口にした憶えはありませんが、そうですね、助かりました」
 改めて礼をしようとするが、顔を上に向けられたままなのでできなかった。
「えっと、ありがとうございました」
「礼なら明後日してもらおうか」
「はい?」
 首を傾げることも許されず、戸惑う梓に彼はなおも笑いかけてみせた。
「明後日、私の為に空けておけ」
「・・・・・・」
「返事は?」
「は、はい!」
 仙蔵の笑みが深くなった。
 ふと顎からは離れた指が、梓の輪郭に覆いかかる乱れ髪を整える。
 その指先が触れた箇所が、火傷したように熱く感じたのはどちらが熱を持ったからだろうか。
「明後日風邪を引いたなどということにならぬよう、身体を温めてから寝るんだぞ」
「・・・・・・はい・・・」
「じゃあな、おやすみ」
 朱唇が一層艶やかに弧を引き、彼は片手を上げて踵を返す。
 その帰路で足音がしないことに、超常現象めいたものは一切感じなかった。ただ、彼が優秀な生徒であることを裏付けるような、彼の新たな発見だったように思う。
 夜陰が仙蔵の姿を完全に隠した頃、月に掛かる雲も晴れた。
 なにもない古い四阿。
 そこに現れた、絶世の美女と化した仙蔵。
 ・・・・・・なにか企んでおられるような笑い方だった。
 そんなことを思いつつ、梓は課題のことを頭の隅に追いやりながら明後日のことを憂いた。



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