プレビュー画面表示中

寡黙と憂鬱の日々[19]


39.
「塗り薬を出しておきますから、暫くはお風呂で洗う際もシャワーをかける程度にしてください。
決して擦ったりはしないように」

同じ言葉でも、医者が言うと卑猥さを全く感じない。高杉は軽く頷いて診察室を後にした。
待合室にいた沖田に診断結果を説明し、とりあえずタトゥスタジオに戻った。
二階に上がると、沖田が後ろから抱きしめてきた。

「……約束してください」

沖田の声は縋っているようにも、脅迫しているようにも聞こえた。

「…これを機に、これ以上誰にも身体を許さないって……約束してください。身体が疼いたら、
俺が満たしてやる……心が痛んだら、気の済むまで泣かせてやる……だから」
「…………」
「うん、て……言って」

小さく、激しい懇願だった。それだけで躊躇の言葉など、かき消されてしまった。

「……うん、分かった……」

後々、自分がどれほど無責任な人間か痛感することになる。
沖田に求められるのはとても嬉しかった。それだけは嘘ではなかった。
一緒に死んでもいいと思える人間だ。そう、信じ込ませた。

入浴は各々済ませて、布団は二人でひとつを使った。初めてのことだった。
沖田が腕枕をしたがっていたので、沖田の胸に収まる形で頭を乗せる。
体の大きさはほとんど一緒だ。それでも、沖田は少し大きく見える。

「いい匂いしますねい」

沖田が高杉の旋毛のあたりに鼻頭を宛てがい、子犬のように匂いを確かめてくる。

「…なんだよ、くすぐってえ」
「晋助の髪の匂い…好きでさあ」
「お前のとこの、シャンプーの匂いだろ?」
「シャンプーと、晋助の匂いが混ざってる」

こうした日々を重ねて、そのうち兄弟のようになって、番いになっていくのだろうか。
少しずつ閉鎖された空間に身を投じるようになり、いずれ二人きりの世界で誰にも知られずに死んでいく。
沖田の持つ、細い糸の上を歩いているような不安定さがそう思わせた。

(あいつとも、会うこともないのか…)

心から離れない。離れてくれない。
このまま沖田と順調に行けば、沖田の方が遥かに大きな存在になるはずなのに、洗っても落ちないシミのような、
砂を被せてもくっきり残っている足跡のような。
セっクス以外の思い出など少なすぎるくらいなのに、映画のワンシーンだけが何時までも脳内で繰り返されるように。

「晋助は、甘い言葉は苦手ですよね」
「…なんだ急に」

ふと見上げると、沖田の表情はいつになく大人びていた。
この温かい目は苦手だと思う部類だ。その類の目を向けてくる人間で、ロクなものはいなかったからだ。

「晋助…言いたい」

沖田は切なげだった。
この男のこういう目は、見下す気にはなれない。それくらい必死さが湧き出ていた。
高杉は沖田と目を逸らさずに、その両頬を包んでやる。
沖田は、涙さえこぼしそうな笑顔を広げた。

「…アンタが、好き」



一日、また一日と過ぎていく。
過去の自分たちが今を眺めているとしたら、ただ目を丸くするだけだろう。
隣に沖田がいることが、恐ろしい程当たり前になっている。
朝目覚めれば、自然と「おはよう」を口にする。
大学やバイトの帰りは、スーパーへと足が向く。沖田の健康を考えて、材料を選ぶ。
最初は沖田が、今は二人でスタジオを終えると、飯を作る。

「沖田、身体に触るから塩は控えめな。でも、決められた量はちゃんと食えよ。それと…」
「…ふう、アンタ最近小姑みたいになってきてまさあ」
「誰のためだと思ってんだ」

言い争い、とまでは行かない、些細な悪態を吐き合うことが増え、その度に沖田は、幸福を噛み締めるように笑う。

「何笑ってんだよ…」
「いや…」
「………」
「いつまで、こんなふうにアンタといられるのかな、って……」

幸福の奥は、哀しんでいた。
沖田は毎日血を吐いている。表情は明るくなっても、病状は悪化している。
すぐに死んでしまうのでは、と思うほどに酷い吐血の時もある。
最近では、スタジオも早仕舞いしている。
近いうち、本当に最期を看取るような事態になるかもしれない。想像できるようで、想像のうちでしかない。

「晋助」
「ん?」

沖田は遠い目をしていた。

「飲みたい」
「え?」
「酒…飲みたい気分でさあ」
「………」

身体に良くないのは知ってる。本人の身体を尊重するか、本人の意思を尊重するか。
重病患者と向き合っていれば、何度だってその決断を迫られる。

「…付き合うよ」
「…ありがとう」

自分の声が震えたのが分かった。沖田が死んだら自分は、悲しくて泣くだろう。


スタジオを閉めて、一駅隣まで移動することにした。
近場のほうがいい気もしたが、気分転換がしたいと、沖田の希望だった。
洒落た店のほうが気分もよかろうと、外観に惹かれてワインバルを選んだ。
沖田はバルは慣れてないらしいが、新鮮だと喜んでくれた。

入口には、髪をオールバックさせた、気品に満ちた男が姿勢正しく立っていた。

「いらっしゃいませ」

接客は良さそうだ。まるで、VIP扱いされているようだった。

「只今カウンターの席のみのご案内になりますが、宜しいでしょうか?」
「どうする?」

他の客に混ざって飲むことを、沖田が嫌うかもしれないと思ったが、彼はいいですよ、と即答した。
安堵の表情を浮かべた店員に、それでは、と導かれる。
運がよかった。カウンター席は、丁度二席空いているといった状況だった。

「具合悪くなったらすぐ言えよ」
「大丈夫…今日は、割と調子いいみたいで」

沖田はすっかり病人の顔だった。健康的な人間の顔は、出来なくなっていた。
それでも笑ってくれればほっとした。

「沖田、とりあえず白のグラス頼むから」
「アンタのチョイスでいいですよ」

白を二つ注文した。それにビーンズのサラダを追加する。


「ボトル……もうひとつちょーだい…」


相当酔っ払っているのだろうか。間延びした男の声が、高杉の一つ置きの席、つまり沖田の隣席から聞こえた。
よりによって沖田の隣に、と高杉は嫌悪感を込めて睨みつけた。

「お客さん、飲みすぎじゃないですか?毎日毎日ご来店下さるのは嬉しいんですが…」
「べつにいいじゃーん……金だって、ちゃーんと払ってる……」

情けなく項垂れて、他の客から批難の視線を浴びているその男から、高杉は視線を外せなくなった。



「…ぎん………ぱ…ち………?」



バーテンダーが溜息をつきながら、冷えたワインボトルをあける。
グラスに注いで、男に手渡す。水でも飲むように、男は一気に喉に押し流した。

「晋助?」

固まっている高杉に沖田が気づく。
知らん振りをすればよかった。すぐに店を出れば良かった。

男は首が転がり落ちるのではないかと思うほど、がくっとだらしなく顎を引いた。
その際に、頭に衝動があったのだろう。
「頭いてえ…」と額を支える。ふとした拍子に目が合った。
高杉とその男の時間だけが、止まった。

「晋助…?」

沖田に呼ばれている。呼ばれているのに、高杉はその男を見据えていた。
男も先程のネジのゆるんだ雰囲気とは打って変わって、その目を大きく見開いていた。

「……知り合い?」

高杉の視線の先を追った沖田が、高杉と男を交互に見つめ、そう尋ねてきた。
冷や汗を掻いたのは高杉だ。
他の男だったら、知らないと言えたかもしれない。昔の自分なら、平然と「さあ?」と言えたかもしれない。
口ごもる。言い訳以上に、言葉が出ない。


「あー、ごめん………なんか可愛いコだなーと思って見ちゃったよ」


緊張の糸を切ったのは、銀髪の男だった。
え。
高杉の胸を支配したものは、安堵でも、憎悪でもなかった。その時は言葉では言い表せなかった。

「困りますよー。ウチのお店はそういうところじゃありませんからね」
「だからーごめんて……カワイイ子いたら、見ちゃうじゃんそりゃあ」

えっと。
高杉は何も繕えなかった。
男の目が、高杉を赤の他人として映してきた。
えっと。
男は「んじゃ、そろそろ出るわ。お会計」と、先刻の酒酔い具合が嘘のように、はっきりとした口調で財布を取り出した。
えっと…。

「俺だって一応常識あるぜ。連れがいるコには、手出さねえよ」

男は勘定をさっさと済ませた。
えっと…えっと…。

「晋助、俺ちょっと用を足してきまさあ」
「え?」
「食事中に行くのはアレなんで、食事前に」

沖田が急に席を立った。店員に手洗い所の場所を確認すると、奥に消えてしまった。
このタイミングで。

「……あの………」

高杉は定まらない声音で、やっとの思いのように吐いた。
男は席を立とうとしていたが、止まった。

「あの……さ……」

どうして。少し前まで、普通に話していた。
こんな、初めて声をかけるみたいに。
男は表情を変えないまま、再び帰り支度を始めた。

「銀……八………」

漸く呼んだ名前の響きは、あまりに頼りなかった。
男はそれさえ無視をした。目も合わせず、出口に向かおうと背中を向けた。

「…っ」

呼び止められなかった。呼び止められない代わりに、高杉は男の後を追った。
男は高杉の気配に気づいて立ち止まる。落ち着いた動作で、振り返ってきた。

「なんだろう?」

彼は笑顔だった。店員が客に向けるような、そんな笑顔だった。
次の瞬間、それを引っ込めた。


「馴れ馴れしく近寄ってくんなよ、ビッチ」


一際憎々しく高杉を睨んだ男は、すぐに背を向けて扉の奥に行ってしまった。
「ありがとうございました」と店員の声。高杉は、その場に立ち尽くしていた。

言葉のやりとりは、二人にしか聞こえないものだったのだろう。
周囲の客は、あまり気にせずに飲んで、会話していた。
唯一、高杉と男の一部始終に対して一寸も逃さないでいた、鋭い視線には気付かなかった。

高杉の思考は止まったまま、頭だけはどこか冷静で、とりあえず席に戻った。

「お客さん、知り合いだったんですか?あの人と」

バーテンダーが意外そうに話しかけてくる。

「……たぶん……」

あれだけ赤の他人を演じられたら、自信を持って「はい」など言えない。

「どこかで会ったような、程度ですか?」
「……はい……」

バーテンダーはそれで納得したらしい。

「あの人、最近離婚したみたいですよ」
「え?」

高杉は思わず目の前でシェイキングするバーテンダーを見返した。

「聞けば結構な遊び人みたいですよねー。あの人」
「………」

高杉が黙ってバーテンダーを見据えていると、興味津々と誤って捉えられた。

「家庭なんてどうでも良かった、て言うんですけどねー。その割に、何かを紛らわすようにして、
毎日通ってくるんですよ。それであんなに飲んだくれて」
「………」
「大事にしていたかどうかは別として、あの人にとっての家庭は、それなりの大きな位置づけだったんじゃないですかね」

どうぞ、とバーテンダーは頼んでもいないカクテルを手渡してくる。
よく分からないが、サービスだそうだ。
ココナッツとピーチを混ぜたもの。甘い。
バーテンダーはそれで話を止めた。それが店員と顧客の線引きだった。

ここがもし箱の中であったら、泣きたかった。


40.
街灯が行く先を照らしている。
身体がふらふらで冴えている部分は冴えているという最悪な状況下、銀八は千鳥足で進んでいた。
後悔しても仕方がない。それでも、あの顔は寝覚めが悪い。
なんで?そんな表情だった。

暫く歩いて、膝が重くなってきた。
酒が入って頭は単純化して、それが厄介だ。
あの時自分が言い放ってしまった言葉に対しての彼の顔が、繰り返し思い出される。

(晋助……)

大人げない。誰にもこの感情を吐くつもりはないが、きちんと理解している。
他ならぬ、嫉妬だ。

駅までの道を正しく歩いているのかどうか、それすら分からなかった。
ただ何となく働いている方向感覚に身を任せている。
帰らなきゃ。帰る?どこへ?
帰る場所なんて、自分から捨てたのに?

帰り道が分からない。

ダメだ、酒は。銀八は狭い路地の壁面にぶち当たり、立ったまま動かなくなる。
なんて惨めで、滅茶苦茶なんだろう、自分の人生は。
家庭なんて顧みなかったくせに。愛されなくて当然だったくせに。

(行かなきゃ…)

帰る場所なんてなくても、とりあえず何処かへ行かなきゃ。
銀八は、つま先を踏んだ。
腹部と背中下に激痛が走る。銀八は踏み出したまま止まった。

「………う…っ…?」

アルコールのせいで、違和感を覚えるのが遅かった。
それは内部からの痛みではなく、外部からの痛みだった。

「う、ぐっ……!」

先程痛みが貫通した部位より少し上に、同じような激痛が襲う。
なん、だ。
混乱しているせいか、その痛みの発信源が分からない。

「くっ…!!」

三度目は、背中のど真ん中だった。かき混ぜられた頭の中でふと過る。
刺されている、と。

「…な……に………?」

銀八は恐る恐る振り返る。
人。上手く街灯が照らしてくれなくて、輪郭しか見えない。
馴染みのある、人型である気がした。


「し………」

晋助?


銀八は地に倒れた。
四度目が最後だった。最も深々と刺された。
横目で見たのは、コンクリートの地面に散っている血だ。
こんなに暗いのに、生々しいものだけははっきり見える。ぷつんと、意識を閉じた。

伏せた銀八の様子を確認し、輪郭は立ち去った。
ふと機械的な光に当てられた部分は、花の刺青が美しく咲いていた。


トップへ


ブックマーク|教える




©フォレストページ