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□叶える
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ソチオリンピック、フリープログラム。
結弦の演技が始まるまで1時間を切ったあたりから、あたしのテンションはとにかくハイ。
とにかく緊張して気持ちが落ち着かない。
意味もなくイスに座りなおしたり、結弦とお揃いでかったニット帽を被りなおしたりしていた。
あわあわ、あたふたして、自分でも状況がよく分かんない。
周りの人、絶対変な目で見てるよ、どうしよう。
とその時、携帯の着信音(パリの散歩道)が流れる。
幸い一番通路側の席だったので、急いでお客さんの目につかないところまで走って、発信ボタンを押す。
「も、もしもし...?」
「あー...名無しさんの声だ。」
「結弦の声だ...」
結弦はあたしの声を聞けてほっとしているのか、声が少し吐息混じりだった。
「緊張、してる?」
「結構。でも、名無しさんの声聞けたから、ちょっとだけ落ち着いた。」
「あたしも、緊張してる。」
「名無しさんが緊張してどうするんだよ。」
ははっ、と小さく笑う。
電話越しに聞こえる声がいつもの結弦で、自然と顔が綻んだ。
とはいえ、やっぱり緊張しているのは変わらなくて、お互い口数も少なかった。
いつもなら、くだらない世間話とかもするんだけど。
しばらく沈黙が続いたわけなんだけど、その沈黙からさえも幸せを感じてしまうのがあたしたち。
沈黙を破ったのは、あたしでも結弦でもなくて、オーサーコーチだった。
「ごめん、そろそろ準備。」
「分かった、頑張って。」
「頑張るから、ちゃんと見てて。...あー、そうだ名無しさん、俺がもし金取れたら、結婚しよう。んじゃ。」
...え?
今この人なんとおっしゃいました!?
さらっとすごいこと言われたんだけど...!
いろんなことで頭がぐるぐるぐるぐるぐる。
と、とにかく...
結弦、頑張って...!
――
周りの歓声で零れたのは、声よりも涙だった。
『羽生結弦が世界王者』って。
頭では分かってるのに、心で理解できない。
間もなくして、結弦の首にメダルがかけられた。
ここでやっと実感して、またテンションがハイに。
あたしの彼氏、世界王者なんだよ!
すごいでしょ!!
今すぐにでも、周りの人間にそう言って自慢したいくらい!
でもそれは結弦にも迷惑かけちゃうので、自粛。
大きく手を振ってみたら、こちらに向けてにこっとはにかんでくれたような気がした。
最寄のホテルの予約が運よく取れたので、そこに宿泊していた。
ベッドにダイブして幸せを噛み締める。
すると、本日二回目の着信音。
「もしもしっ?」
「ちゃんと見てた?」
「見てたよ!」
結弦の声聞いたら、益々ニヤニヤが止まらなくなっちゃった。
部屋にノックの音が響いた。
「ごめんね、誰か来たみたい。」
ホテルの部屋訪ねてくる人なんて、ホテルマンさんくらいだろう。
そう思って扉を開けると、そこに居たのは...
受話器を持ったままの、愛しい人。
「ゆ、ゆ、ゆ...」
「名無しさんっ...!」
驚いて名前を呼ぶことすらままならないあたしを他所に、携帯も投げ出してあたしを抱き締めた。
「さっきの返事、聞きに来た。」
わ、忘れてた...!
でもさ、そんなの考えなくても決まってる。
「お、お、美味しいお味噌汁作れるように、努力しますっ...!」
そう言った途端に、ベッドに押し倒されて。
今夜はたくさん愛を語るのです。
いつの間にか、結弦の夢があたしの夢になってて。
だから今日は二つ、あたしの願いが叶った日。