順風の夜、満天の星
□切り傷
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いい天気とは、目的地に向かって吹く程よい風と、雨を落とさない白い雲を飾った晴れた空だ。
おやつの騒ぎも一段落した午後、サンジは日向ぼっこがてら甲板に椅子を出し、大量のジャガイモの皮を剥いていた。夕飯には魚のマリネと、大皿に山盛りのフライドポテトが並ぶ予定だ。魚はすでに、スライスした玉ねぎや人参と一緒に調味液に浸っている。
じゃがいもはサンジの手の中で一瞬で裸になり、水を張った桶に飛び込む。剥かれた皮はくるくると足元に落ちて溜まっていく。ひとしきり手を動かし、一息入れようと顔を上げた。
ぺティナイフを置き、背を伸ばして固まった肩を回していると、目の前を鼻歌まじりにウソップが横切る。
「おい!ちょっと待て!」
サンジは椅子をひっくり返して立ち上がりウソップの腕を掴んで引き止めた。膝に掛けていたクロスが落ちる。
「オうぇィ、なに!?」
コックの勢いに狙撃手は驚いておかしな声を出す。
「バカお前、手!クソ切ってんじゃねェか!?」
「ああ、これか。」
サンジはウソップの手を広げてさっきちらりと見えた血の色を探した。左手の人差し指が赤く濡れている。傷の位置と状態を確認し、とりあえず腰に挟んでいたタオルで手をくるみ、指の根本を強く握って止血する。
「今、木の細工してて小刀で切っちまったんだ。もう止まったと思ったんだけどなあ。」
「バカ、けっこう深くやってるぞ。チョッパーに見せろ。」
「あ、今ルフィと昼寝してんだよな〜。」
サンジはのんきな返答にあきれ返った。
「バカ!起こせよ!何のための船医だよ!」
ウソップは困った顔で頭をかく。
「いやいやだって、うかつに起こすのも考えものだぜ?こないだなんて寝ぼけて俺の鼻切り取るとか言い出すしな。それにあんまり気持ち良さそうに寝てて、それがおっかしんだぜ!ルフィの足がチョッパーの…」
話が果てしなく逸れて行き、苛立ったサンジはつい怒鳴ってしまった。
「バカ!そんな話は聞いてねえんだよこのクソっ鼻!」
ウソップもむっとして言い返してきた。
「んだよ!これくらい大丈夫だっつーの!バカバカ言うなエロコック!」
ウソップはサンジが押さえていた手を振りほどき、ベーっと舌を出して走って行ってしまった。
「おい!チョッパー起こせよ!…ったく、あのバ…」
カ、と口にしかけて飲み込んだ。確かに、枕詞のようになっていたかもしれない。
自分にか相手にか舌打ちして椅子を起こして座り直した。皮剥きを再開したが、どうにも腹の虫が治まらない。仕方なく煙草を咥えて火をつけ一服する。
『んだよ!これくらい大丈夫だっつーの!バカバカ言うなエロコック!』
今しがたのウソップの姿、声、子供っぽい"アカンベエ"の仕種が脳裏に焼き付いている。
ああそうとも。その通り。小さな怪我なんて大したことじゃない。戦いではもっと大きな傷を負ったこともあるのだし。
わかってる。
わかってはいるけど。
ウソップの手。
その器用な指先からはいろんなものが生み出される。
ルフィやチョッパーを喜ばせるおもちゃ。
レディ達が重宝している可愛らしい小物。
ゾロの刀の柄巻きがほつれると、応急処置をするのもウソップ。
フランキーと船の修理や改造をし、ブルックの楽器の手入れや調律も朝飯前。
サンジのアシスタントとして、皿洗いから下拵え、簡単な料理なら仕上げまでやってのける。
もちろん自分用の武器も作る。発案・設計から製作まで全てをこなす。
レディはともかく、男連中の衣類のほとんどはあいつの裁縫道具の世話になっている。
サンジも、料理だけなら超一流の自負はある。だがあそこまで多岐にわたる仕事をしてのける才能はない。
第一あの手は、ヘタレで臆病でネガティブな狙撃手の命綱だ。
驚異の精度と命中率の、パチンコから繰り出される多様な"星"。
誰も殺さない、傷つけない、優しい必殺技『ウソップ輪ゴーム』。
器用で役に立つ手。
いつも暖かい手。
口が裂けても本人には言えないが、サンジは密かにその手に、ひいてはその手の持ち主に、敬意を払っている。
だから、怪我なんてしてほしくないのだ。
タオルを広げる。洗い立ての白に染み込んだ赤。ぱっくりと開いた皮膚の切れ目から滴(したた)ったあいつの血。
恋は深い切り傷だと言ったのは誰だったか…。
たとえ傷口の血は止まっても、身体の芯に脈打つ痛みが響く。
その痛みで、一日中、何をしていても傷のことを忘れられないのだ。
サンジは傷の名を呟き、ひとり顔を赤くした。
「クソっ、ナンだコリャ。
そんなんじゃねーぞゴルァ!!」
慌ててむぐむぐと言い訳を口にしてみても、心臓はやたらに張り切る。
切ない風味の溜め息がとめどなく生産・排出される。
と、
「エホン、ゴホン。」
何やらわざとらしい咳払いが聞こえた。
目を向けると、ウソップが包帯を巻いた指をピンと立ててチラチラサンジを見ている。
「あ〜、チョッパーがちょうど起きたから。
心配性のサンジくんが心配しすぎて泣いちゃったら可哀想だから仕方なくネ。
ほっといても大丈夫なんだけどよ。
うん、ま、そゆことだから。」
気まずそうにモジモジきょときょとしながら言う。
ぐる眉の間に寄せていたシワが、氷が溶けるようにゆるむ。
サンジは座ったまま、ちょいちょい、と手招きした。
素直に近づいてきたウソップの手を取り、包帯の巻かれた指をそっとなでる。
「痛くねェか?」
「ん〜、ちょっとは痛い。」
「気をつけろよ?」
「ん。」
「包帯巻いてちゃ、仕込みも皿洗いも手伝わせらんねェからな。」
「てめェ!!そういう心配かよ!!」
いつも通りにふざけてじゃれ合ってゲラゲラ笑う。
バカバカバーカ。
お前がずっと手伝ってくんなかったりしたら、俺はクソ寂しくて泣いちゃうぜ。
《終》
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