short story
□香水ぶちまけた話
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パラパラと小雨がマサゴタウンに降り注ぐ。じめっとした空間に気分が低下し、研究に身が入らない。ナナカマド研究所の自室で研究内容をまとめていたシゲルは、どんよりと重たい溜息を吐き出した。
もう何時間、資料と睨めっこをしていたのだろうか。時間の感覚を忘れる程、作業に没頭していたらしい。再び作業に戻ろうと試みるが、集中力が切れると同時に梅雨独特のどんよりとした空気を察知し、上手く切り替えができない。二度目の溜息を吐いたシゲルは、仕方なく休憩がてらに追加の珈琲を淹れるため、給湯室へ向かうのだった。
そこには既に先客がいた。幼馴染であるコノハとシゲルの先輩である女性研究員が向かい合って何やら会話を交わしている。コノハは両手のひらに乗せた小瓶を、眉間に皺を寄せまじまじと見ている。それに対し、先輩研究員はニッコリと楽しそうに微笑んで、コノハに話し掛けていた。
「何の話をしているんですか?」
込み入った話であれば出直すつもりであったが、二人の様子からそういった類の内容ではないことを感じ取り、自身も会話に加わる。
シゲルの姿に気づいた二人はサッと同じタイミングで彼の姿を視界に映した。コノハは相変わらず無表情でパチクリと瞬きを繰り返す。先輩はシゲルを見た途端、「ナイスタイミング!」と声を上げてこちらへ来いと手招きした。
「シゲルくん! 丁度いいところに!」
「僕に何か?」
「コノハちゃんにもね、ぜひオシャレに目覚めてほしいな〜って思って、香水を用意したのよ!」
その言葉にシゲルの視線は自然とコノハの手の上へと移動した。彼女が両手のひらに乗せているそれは香水の瓶だったわけか。なるほど、コノハが難しい顔で香水を睨みつけていた理由にも納得がいく。
コノハはオシャレに積極的な女の子ではなかった。それは決して好き嫌いの問題ではなく、ただ単に彼女にとって生活の中での優先度や重要性が低いというだけのこと。そういうコトに慣れていないのも理由のひとつか。
だから突然、香水を差し出されて困惑したのだろう。そして、果たして自分に使いこなせるのかどうか、そもそも香水はどうやって使えばいいのか、ということを頭の中でグルグル考えていたに違いない。現に今も少し眉根を下げながら、シゲルにヘルプを目で訴えている。
「ちなみに! 今回、私が選んだのは石鹸の香り! お花の香りよりもコノハちゃんのイメージにあってると思って」
「…………」
「……先輩、香水はまだコノハにはハードルが高いような気が」
「シゲルくんだめよ〜! いつまでも好きな子に嫌味ばっかり言ってちゃ!」
チッチッチッ、と人差し指を振る先輩にやれやれと肩を落とす。今のは嫌味でも何でもなく、ただコノハに助け舟を出しただけだったのだが。勘違いで終わってしまった。
こちらの苦悩も露知らず、先輩は興奮気味にコノハへ香水を勧めている。
なぜかこの先輩、コノハと出会った時から(良い意味で)異様な執着を見せていた。「将来化けるわよ! この子は!」と意気込んで、フリルがあしらわれた可愛らしい衣装であったり、光り物のアクセサリー等を入手し、隙あらばコノハの身に纏わせようと日々奮闘しているのだ。
とは言え、人の気配に敏感で身体能力の高いコノハは、涼しい顔で先輩の攻撃をかわしている。のだが、最近は彼女の執念に押し負けているように感じられる。だからこうして、香水を受け取る羽目になっているのだろう。
「…………あの」
ずっと黙っていたコノハが、控えめに口を開く。
「……香水の使い方って」
その言葉にシゲルと先輩は目を丸くした。まさか……――
「ま、まさかコノハちゃん! とうとうオシャレに目覚めてくれたのね!?」
先輩は目を輝かせて、一人で盛大に万歳を繰り返している。しかし、コノハはいつものように淡々とした様子で言葉を続けた。
「……いえ、そういうわけではなく」
「え、違うの!?」
「せっかく頂いたのに無下にはできないな、と……」
その一言にシゲルは納得する。真面目な幼馴染らしい発言だと。
かなり異様な形とはいえ、これは自分を好意的に思ってくれている人からの贈り物であることに違いはない。受け取ってしまった以上、ないがしろにはできないと考えたのだろう。
「コノハちゃん……あなた、女神ですか!? 私、普段あんなにあなたのことしつこく追いかけ回しているのに優しいのね……」
「追いかけ回してる自覚あったんですね」
涙ぐむ先輩の言葉を聞いた瞬間、コノハの瞳に氷が宿る。そして、容赦のないツッコミが入った。さっき先輩の思いを汲んで出された温かい言葉はどこに行ってしまったのだろうか。そう思わせるほど、冷ややかな声だった。
「や、やだわ〜コノハちゃん! 目が怖い……! そんなことより、香水開けてみて!!」
「…………」
数秒ほどコノハから発せられる冷気によって肌寒い空気が流れていたのだが、やがて徐々にそれも収まった。コノハの意識が、自身の手にある香水へ移ったからだろう。
先輩は「命拾いした」とホッと胸をなでおろしている。さっきコノハのことを女神呼ばわりしていた人の発言には思えない、とシゲルも心の中で呆れと嫌味を飛ばす。
はしゃいだり焦ったり、忙しない様子を見せる先輩を放って、再び香水と睨めっこを開始したコノハ。とうとう、蓋に手を置いて力を込めた。
――バシャッッ!
蓋が左に向かって回転した直後、何かが飛び散った。フリーズする三人。そんな彼らの鼻を刺激するのは、強烈な石鹸の香りだった。
「……何してるんだい」
「……………………香水ぶちまけた」
水浸しになった自身の手と水溜まりができた足元を交互に見ながら、コノハは絶望的な表情でシゲルの問に静かに答える。
「ただ蓋を開けるだけなのに香水ぶちまける人、初めて見たよ」
嫌味以外、言葉が思い浮かばなかった。給湯室に香る香水の匂いに眉を潜める。元々、香水に耐性のあるシゲルでも流石にこの刺激には耐えられない。
「拭くもの持ってこなきゃ〜!」と慌ただしく給湯室を飛び出す先輩。コノハは蓋を開けるポーズのまま固まっている。そんな彼女から香水を取り上げ机の上に置いた後、蛇口を捻りながら言った。
「ほら、早く手を洗いなよ。"コノハちゃん"?」
「……………………」
完全に馬鹿にされている。しかし、今回のことに関しては何も言い返せない。その悔しさに頬を膨らませながら、コノハは手を洗う。
任務外ではどうしてこう抜けている所が多いのだろうか。昔と変わらぬおもしろおかしな幼馴染の一面に呆れはするが、それ以上にそんな所も愛おしくて仕方がない。
プリンのように大きく頬を膨らませたまま手を洗う幼馴染の頭をポンポンと撫で、シゲルはクスリと上品な笑みを零した。