short story

□あなたの理解者でありたい
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 こんなにも誰かをぶん殴りたいと怒りを覚えたのは、本当に久しぶりだった。ロビーに響く研究員たちの声が煩わしくて仕方がない。けれど、大事なこの日に騒ぎを起こすわけにも行かない。それに私のこの手は、人を無闇やたらと傷つけるためにあるわけではないのだから。
 私は拳を強く握り締め、心に募る苛立ちを必死に抑えていた。
 
 今日はタマムシ大学の会場で、年に一度開かれる学会の日だった。私の幼馴染であり今は恋人であるシゲルも、自分の研究発表のため学会に参加する。
 私はシゲルの発表を見届けるために、休暇をとってこうしてタマムシシティにやって来た。現地で落ち合う約束だったため、会場に到着して彼の姿を探していたのだが、そんな私の耳に入ってきたのはシゲルに対する陰口だった。

「身内がお偉いさんだと楽だよな」

「オーキド博士の孫ってだけで、良い評価をもらえるんだからな」

 ……やめて。
 そんなこと、言わないで。

「どうせ権力利用しまくってんだろうよ」

 違う。違う、ちがう……!
 全部、シゲルの実力なの。こんな風に陰でコソコソすることしかできないクセに。血筋が全てだなんて言わないで。
 死角になって私の姿に気づいていない彼らは、自分たち以外この場に誰も居ないと思い込んで、好き放題にシゲルを貶す。
 怒りでどうにかなりそうだった。今すぐあいつらの前に出て、一発ずつ思い切り顔面をぶん殴ってやりたい。けれど、そんなことをして騒ぎにでもなったら……色んな人に迷惑がかかってしまう。学会だって中止となってしまうかもしれない。
 そうなれば、シゲルの努力が水の泡となってしまう。彼の印象を下げてしまうことにだってなりかねない。私の軽率な行動によって、シゲルの進む道を妨げてしまうのだけは駄目。何があろうと、絶対に。
 けれど、どうしよう。どうやってこの苛立ちを抑えれば良い? 何度、深呼吸を繰り返しても心に募るモヤモヤは消えてくれない。とりあえず、一度外に出て新鮮な空気を吸って切り替えよう。そう思って、踵を返した時――

「コノハ?」

 白衣を纏ったシゲルが、私の視界を埋めつくした。
 いつの間に背後に立っていたのだろうか。普段、仕事の関係で人の気配には敏感な方なのだけれど、怒りで全く気づかなかったらしい。

「…………シゲル、いつから?」

「ほんの少し前からここに居たけど? それより、様子が変だけどどうしたんだい?」

 私の困惑した様子に違和感を覚え、シゲルが眉を顰める。もうすぐシゲルの発表の番が回ってくる。本番直前で彼に心配をかけるわけには行かない。そう思って、何とか言い訳を考えるけれど、混乱した頭はちゃんと働いてくれない。
 いや、それよりも気にするべきことは他にもある。さっきシゲルの陰口を叩いていた人達は、まだロビーに居る。このままここに居れば、シゲルの耳に入ってしまうかもしれない。早く、別の場所に移動しないと。

「…………っシゲル、少し、外に出ない?」

「僕は別に構わないけど……それよりも君、さっきから様子が、」

「いいから」

 私はシゲルの手を取って、会場の入口を目指し歩き出そうとした。けれど、遅かった。

「七光りの癖に」

「血筋に恵まれてるってのは羨ましいぜ」

 私の隣に立つシゲルの空気が一瞬にして変わった。自分に向けられて放たれた言葉であると認識したからだろう。
 聞かせたくなんか、なかったのに。
 シゲルには余計なことなんて考えず、自分の発表に集中してもらいたかったのに。
 込み上げる悔しさと胸を刺すような痛みに気を取られ、私の足は動いてくれなかった。

「……行こうか」

 シゲルが私の手を握って、代わりに歩き出す。本当は、私がそうしなければいけないのに。逆に気を使わせてしまったことに申し訳なさを感じながら、私は黙ってシゲルの後を着いていった。

***

 
「とりあえず座りなよ」

 会場を出た私たちは、道の脇に設置されているベンチへ二人並んで腰掛ける。いつも心地好く感じられる澄み切った青い空にも、強い太陽の陽射しにも、私の心が揺れ動かされることはなかった。
 数秒間、静寂が私たちを包む。それを破ったのはシゲルだった。

「君の様子がおかしかったのは、さっきの研究員たちの言葉が原因?」

「…………」

 彼の問いかけに、私は口を開くことなくただ首を縦に振って、肯定の意を示した。

「そうか。けど、コノハがそこまで気に病む必要はないよ。今に始まったことじゃないだろう。ああいうのは言われ慣れているから」

 サラリと言ってのけるシゲルの発言に私は呼吸を止めた。だってシゲルが、あんまりにも平然と振る舞うから。本当は誰よりも悔しいくせに、気にしているくせに。

「…………うそ」

「え?」

「……どうしてそうやって強がるの?」

「強がってなんか、」

「わたし、そんなに頼りない?」

 私はようやく顔を上げて、真っ直ぐとシゲルの顔を自身の目に映した。シゲルは、驚いた表情で私を見下ろしている。

「慣れてるなんて、言わないで」

 そんな悲しいこと、言わないで。
 私はシゲルの白衣を掴んで、彼の胸に顔を埋める。込み上げる涙を必死に堪え、震える唇をゆっくりと動かす。

「……私は、知ってる。シゲルががんばってること」

 いつだって努力家で、自分の目標と真剣に向き合って、熱心に研究に取り組んでいたこと。自分の課題がどれだけ忙しくても、ポケモンたちのトレーニングだって疎かにしない。仲間になったポケモンたちだけでなく、私のことだって気にかけてくれる。
 それは今に始まったことじゃない。あなたは小さい頃からずっとそうだった。どれだけ七光りと妬まれ、陰口を叩かれようとも、自分を見失わず、進むべき道をしっかりと歩いていた。
 毎日、懸命に努力を積み重ねてきたこの人の実績を、血筋という簡単な理由で済ませるだなんて、そんなことは絶対に許さない。
 そう、自分の思いをシゲルにぶつければ、体が彼の温もりに包まれた。

「……ありがとう、コノハ」

 溜息と共に吐き出されたシゲルの言葉から疲れが感じられた。その声を聞けばわかる。やっぱり気にしていたのだと。
 プライドの高いシゲルのことだから、自分の葛藤や苛立ちはおくびにも出さず、ずっと心の中で溜め込んでいたのだろう。真に受けたところでどうにもならないと、なんとか自分の中で割り切ろうとしていたのだと思う。
 だけど、シゲルだって完璧じゃない。陰口を耳にすれば気にはするし、悶々とした感情を余すことなく処理するのは難しい。だから――

「一人で抱え込まないで」

 私の声は自分でもわかるくらいに震えていた。そんな自分に呆れながらも、私はシゲルの背中に腕を回し、ギュッと抱き締める。
 こんな風に、私も彼に支えてもらっている。だから、私もあなたの力になりたいの。

「……まったく、本当に君には敵わないよ」

 シゲルは私の肩に額を押しつけ、小さな声でそう言った。
 彼のことだから、本当は、私の前でこんな姿を見せたくなかったのだと思う。昔からそうだった、私の前では格好をつけて、自分の弱みを見せようとしない。情けない姿を見せたくない、心配をかけたくない、そんな気持ちから。
 だけどね、シゲル。私はあなたの一番の理解者でありたい。だから辛い時は頼って欲しい、そう思うの。

「……シゲル」

「ん?」

「私は、ちゃんと見てるから」

 あなたが頑張っている姿を、一番近くで、これからもずっと。ずっと――
 私がそう伝えれば、シゲルはゆっくりと顔を上げて私と向き合う。その顔には、強がりから取り繕った笑顔はもう無かった。いつもの大人びた雰囲気を取り戻し、一人のポケモン研究者として理知的な顔を見せる。

「ありがとう、コノハ」

 そして、彼に唇を塞がれる。こんな外で、誰かに見られたらどうするの、といつもの私なら文句を飛ばしていただろう。けれど、今日だけは特別。私は目を閉じて、彼の口付けを受け入れた。
 数秒後、ゆっくりとシゲルが私から距離をとる。そろそろシゲルの発表の時間だ。いつまでもここに居座るわけにはいかない。
 少しだけ寂しさを感じつつもそれをグッと押し込んで、少し着崩れた白衣を整える彼を見つめる。

「じゃあ、僕はそろそろ行くよ」

「うん。発表、頑張って」

「ああ」

 いつもの好戦的な笑みを携え、シゲルは私に背を向け会場へ歩いていく。
 シゲルらしい自信に満ち溢れた表情に、私はホッとした。あの様子だときっともう大丈夫。そう安堵しながら彼の背中を見送る。

「そうだ、コノハ。一つ誤解してるみたいだから言っておくよ」

「…………?」

 足を止めてくるりとこちらへ向き直ったシゲルの言葉に、私は首を傾ける。

「僕が今まで頑張ってこれたのは、コノハがいつも傍で見守ってくれていたからさ」

「……え」

「壁にぶつかって立ち止まった時、君はいつだって前に進む力をくれる。僕が昔から頑張って来られたのは、コノハの存在があったからさ」

 その言葉に私は思わず胸を抑えた。ちゃんと彼の力になれていた、その事実がただただ嬉しかった。
 私の様子に満足したシゲルは、今度こそステージへ向かって歩き出す。背筋をピンと伸ばし、真っ白な鎧を翻して。その姿が何だかとっても逞しくて、格好よくて、見蕩れてしまっていたのは、私だけの秘密。



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