short story
□ふっくら大作戦
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仕事の合間のちょっとした休憩時間。コノハはいつものように、紅茶の中でも一番大好きなアップルティーを味わう。けれど、その表情は優れなかった。
大きく溜息を吐いて、窓の外へと視線を投げる。
最近のコノハの悩み、それは恋人であるシゲルがずっと研究で忙しく、十分な休息がとれていないことだった。もちろん、全く睡眠をとらない、食事をとれていないというわけではないのだが。
(昨日だって……)
リンゴのタルトを口に運びながら、昨晩のシゲルとの会話を思い出す。
夕飯も後片付けも入浴も済ませた後のこと。自由時間もでき、夜のティータイムでもしようか。そう思ってシゲルに声をかけようとしたコノハだが、いつの間にか論文を手に真剣な表情でそれに目を通す彼の姿に驚いて、数回瞬きを繰り返す。
(また作業してる……)
来月行われる学会での発表に向けて、最近はずっと研究室に引き籠ってばかりだった。最後に食事や入浴以外でゆっくりしている姿を見たのはいつだったか。
『ねぇ、シゲル……少し休んだら?』
あまりシゲルの作業の邪魔をするのは気が進まないが、このままでは疲労で倒れてしまってもおかしくない。日に日に目の下の隈も濃くなっている気がする。
シゲルのことだから倒れるまで無理をする、なんてヘマはしないだろうが、やはり放ってはおけない。だから時々こうして声をかけるのだが、
『さっき仮眠をとったから大丈夫だよ』
そう言って、なかなか休息をとろうとしないのだ。そして、もう一つ気がかりなことーー
『……でも少ししか寝てない』
『ああ、目が覚めてしまってね』
『…………』
仮眠があまり補いになっていないこと。すぐに目が覚めてしまったり、睡眠が浅いなんてことが多かった。
『大丈夫だよ、コノハ。自分の体調管理くらい、しっかりやるから』
薄ら隈のある顔で言われても説得力がない。少し口を尖らせながら、その後は作業に戻るシゲルをしばらく眺めていたのだった。
頑張っているシゲルのために何かできないか。
そう思って美味しいものを食べてもらおうと調理台に立っても、いつもの如く失敗しキッチンは爆心地に変わり果てるだろう。そうなれば、余計に疲労を増やしてしまうだけなのですぐに却下した。
ではマッサージはどうだろうか。そう考えたが、マッサージが得意な訳でもないし、多分自分がやれば力加減ができなくて体を痛めてしまうかもしれない。これもすぐに却下となった。
他に何かないかと考え込んでみたが、やはり何も思い浮かばなくて、項垂れるしかなかった。
「……どうすればいいんだろう」
再び零れる溜息。そんなコノハの肩に、つんつんと触れる何か。
そちらへと視線を寄越せば、立っていたのはコノハがいつもお世話になっている先輩だった。
「コノハちゃん、相変わらず研究熱心な恋人君のことが心配なようね?」
コノハは眉尻を下げてコクリと頷く。
そんな後輩にクスリと笑みを零した先輩は、右手の人差し指をクイッと内側に折り曲げる。
「コノハちゃん、耳貸して?」
「……?」
一体、なんだろうか。小首を傾げながら、先輩へ近寄る。
ある提案を耳打ちされたコノハは、顔を真っ赤にするのだった。
***
その夜。夕飯に後片付けを終えた後、忙しい一日の中にできるちょっとした自由時間。
いつもであればコノハと二人でゆっくりと過ごすものだが、学会を控えているシゲルはまだまだやることが山積みで、とてもそんな時間は取れそうにない。再び白衣を羽織り、お供の珈琲を準備する。
「…………ねえ、シゲル」
「ん?」
いつの間にか後ろに立っていたコノハ。その表情は曇りがちで、シゲルの体調を案じていることがわかる。
「やっぱり少し休んだ方が……」
胸の上で両手をギュッと握りしめ、遠慮がちに声をかける。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
ニコリと笑みを乗せて言う。そして、コノハが安心できるようポンポンと頭を撫でると、マグカップを手にしたシゲルは再び研究室に戻ろうとする。
コノハはバッとカレンダーを確認した。まだ学会まで時間に余裕はあるが、今の生活習慣ではいつか本当に倒れてしまう。
やはりやらねば。コノハは拳を握り覚悟を決めた。
「っ、シゲル……!」
シゲルが部屋に入る寸前で、ギュッと彼の白衣を掴んで引き留める。
「なんだい?」
突然、コノハに呼び止められ振り返ったシゲルは目を丸くした。
目に映ったのは、林檎のように顔を真っ赤にしたコノハだった。今度は何を考えているのだろうか、少し戸惑いながら彼女の言葉を待つ。
「………………っ、………………ざ…………ら……」
あまりにもボソボソと喋るので、コノハの言葉が聞き取れず少し首を傾ける。
数秒の間の後、コノハは再び小さく唇を動かした。
「…………………………ひざ、まくら……」
膝枕。その単語に、シゲルの思考が停止した。
「…………したら、休んでくれ、る……?」
真っ赤な顔で、か細そい声で、上目遣いで、愛しい彼女からそんなことを囁かれて折れない男なんていないと思う。
そんなくだらないことを頭の片隅で考えながら、シゲルはニッコリと綺麗な笑みを乗せた。
「……じゃあ、お願いしようかな」
「えっ……あっ、うん」
今まで何度も『休んだら?』と声をかけても『大丈夫』の一点張りだったのに。
まさかこんなに早く折れるとは思わず、コノハは目を点にする。そして、しばらくしてから、またまた林檎のように顔を真っ赤に染め上げた。
リビングのソファへ移動し、とりあえず2人並んで座る。さきほど淹れた珈琲を口に含みながら、チラリと少し距離を開けて隣に座る恋人へ視線を投げる。
そこには相変わらず真っ赤な顔で、モジモジと落ち着きのない様子を見せるコノハがいた。自分から膝枕を提案した羞恥心と緊張感がごちゃ混ぜになっているのだろう。
初々しい反応を見せる恋人に愛おしさを感じながらも、シゲルはふと気になった疑問をコノハへ飛ばす。
「そういえば、膝枕は誰からの入れ知恵なんだ?」
初心なコノハが一人でこうした提案を思いつくなどあり得ない。
「……そのっ、せ、先輩からのアドバイス?みたいな……『膝枕に釣られない男なんていない』って力説して……」
「……まあ、否定はしないけどね」
シゲルもつい数分前に同じようなことを考えていたわけだから間違ってはいない。
とにもかくにも、膝枕という機会を作ってくれた名も顔も知らない先輩には感謝しなければ。心の中で礼を述べながら、まだモジモジしているコノハの膝の上に頭を置いた。
突然で驚いたのか、コノハは小さく『ひゃっ……!』と声を漏らす。クスリと揶揄うようにシゲルが笑みを零せば、今度はプクリといつものようにプリンの怒り顔に変えた。
しかしすぐに困った表情で、シゲルの顔を見下ろす。
「……シゲル、眠れそう?」
「ん?ああ、十分休めそうだよ」
本当に膝枕が休むきっかけになるのだろうかと、まだ半信半疑らしい。
だけどその効果はもう表れていたりする。膝枕というこのシチュエーションと、コノハのふっくらとした太ももの柔らかさが、既にシゲルの心の癒しになっていた。
コノハに伝えてしまえば恥ずかしさのあまりやっぱりやめると言い出しかねないので、流石に声には出せないが。
「そ、それならいいんだけど……」
ホッとした様子のコノハ。そんな恋人の穏やかな表情を見上げながら、シゲルも優しく微笑み返す。
「……シゲル、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
コノハの透き通った声は優しい子守歌のようだ。彼女の温もりを感じながらシゲルはゆっくりと瞼を閉じた。
〜おまけ〜
「ーーあっ、おはよう」
「…………ああ、おはよう。どれくらい寝てた?」
「えっと、4時間くらい、かな……?」
いつもは仮眠をとってもすぐに目が覚めてしまうというのに。よほど、コノハの太ももや温もりが心地よかったらしい。
でもそのお陰で、今まで蓄積された疲労もかなり回復したように感じる。
「よく眠れた?」
「お陰様でね。これから仮眠をとる時は君に膝枕してもらおうかな」
「えっ……」
毎回これをするなんて流石に心臓がもたない。
シゲルのご機嫌な笑みを見つめながら、再び顔を真っ赤にしてオロオロするコノハであった。