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□がんばって
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 二人が恋人になる前の話だ。

 妹みたいだと言った瞬間、空気が凍ったように張り付いて動かなくなったのを真琴は記憶している。
 あの日ほど自分の発言に後悔したことはない。




 それはたまにある、水泳部で集まってゲームや雑談に勤しむ休日の出来事だった。
 集まる家は毎回変わるが、その日はたまたま真琴の家。寄ってきた妹と弟に構ってやりながらも、取り留めのない話をしていた。


「あ、……それ、手伝う」
「いいよ。悪いし」
「大丈夫」


 出されたジュースが空になったのを見た名無しさんがコップを片付けるといって腰を上げると、それを見た幼子二人が私も僕もー、と賑やかについていった。
 真琴はごめんと謝りながらも微笑ましいそれを見送る。
 
 少しばかり静かになった瞬間、渚がふと、「名無しさんちゃんって可愛いよね」と言い出した。


「可愛いです」


 江もそれに便乗する。


「あの真っ黒な髪の毛やくりっくりな目!最初メイクしてるんじゃないかと思いました」
「へー」
「それにあの女性らしい筋肉の付きか」
「あーはいはい」


 結局江ちゃん言いたかったのそれなんじゃんと呆れた風に渚が制すると、いじけた風にだからコウだってと唇を尖らせた。


「そうだな」
「――ええっ!?」


 黙って三國無双で雑魚狩りに勤しんでいた遙がふと振り返って真顔のまま言ったので、渚を始め全員が、あの水と鯖にしか興味のなさそうで恋の話を振っても滝について語る遙が、と驚いた。


「あのフォームは割と好きだ」
「泳ぎかよ!」


 閑話休題。


「まこちゃんはどうなの?」
「え、俺?」
「うん」


 まさか振られるとは思っていなかったたため、うーんと考え込んだ。


「そうだな……可愛いと思うよ。妹がもう一人できたみたいな――」
「まこちゃんッ!!」
「え?」


 渚の焦りが混じったような一瞬の叫びにびくりと肩がはねるほど驚き視線の向くまま振り向くと、ちょうど名無しさんの髪が翻るのが見えた。後ろについていたらしい蓮と蘭が驚いて目をぱちくりさせている。


「ああ……先輩、馬鹿」
「え?」
「まこちゃん〜……」
「ええ!?」


 頭を抱えた江と渚。その横で遙は再度テレビに向かい、怜は首を傾げている。


「もしかしてさ……まこちゃん気付いてない?」
「えっ嘘ですよね先輩!?」


 何に、と訊ける状況でもなかった。
















 よく、何を考えているのかよくわからない、と言われる。

 昔から元々表情が乏しいのと、そのお蔭であまり人と関わってこなかったせいだと思う。
 顔色や声色をころころ変えられる人は羨ましい。

 そのせいで損をすることには、もう慣れた。







 ある日の朝。


「おはよ」


 ふにゃふにゃした、くらげみたいな。
 でもとても優しい声だった。
 
 高校に入ってから、挨拶されるのは先生以外にいなかったから、驚いて頷くことしかできなくて。
 その日は落ち込んだ。








 いつ彼のことを気になりだしたのかは覚えていない。誰にでも優しいのに、それでも構わないと思った。
 
 気付いたその日から、頑張ろうと思えた自分に驚き半分、戸惑い半分。
 うん、本当にちょっとずつ、がんばった。

 朝挨拶してみたり、教室移動中に一言二言話しかけてみたり。運良く彼の後ろの席になったときには、休み時間ごとにちょっと話したり、テストを見せ合ったりした。ちょんちょんつついてちょっかいかけてみたり、朝頑張って登校時間を合わせてみたりもした。部活中は流石にしなかったけど、終わったらよく話すようになったし。
思い返すと恥ずかしいくらいかもしれない。

 そして更に、彼に話しかけるのと同じ要領でいってみると、意外に色んな人と話せることに気がついた。
 朝挨拶したり、次の教科や提出物を訊けるくらいの友達ができたことにも驚きだ。

 成長した。彼のお蔭で、私は。
 彼は何もしてないかもしれないけど、それでも私にとってあの朝は大きな転換点だったのだから。









 泳ぐことは好きだ。無心になれるし、何も考えなくても上手くいく唯一の特技、と呼べることだった。
普段はとろいだの遅いだのと影でこそこそ言ってる癖に、体育の水泳の時だけちやほやしてくるクラスメイトは嫌いだったけど。

 受験して入学した高校はプールが整備されていなくて、水泳の授業はなかった。
 それでいい、と思った。






 水泳部ができた、と聞いたとき、自分でも気付かないうちに入部届を取りに行っていた。
 理由はわからない。

 ただ、もう一度、少しでいいから泳ぎたかった。





 そしてそこには彼がいた。
 本当にびっくりした。

 更に彼は部長らしい。
 背泳ぎが得意で、今年の夏にはリレーの先頭で地区優勝したそうだ。

 私は中学でクラスメイトというものを嫌いになって以来、関わることをしていなかった。
 でも彼と出会って、初めて名前を覚えてみようという気になったのだ。

 あの朝あと5分家を出るのが遅かったなら、今頃まだひとりぼっちだっただろう。

 運命、なんて信じてなかったけど、そう形容してもいいくらいの良い偶然だった。 







 彼が私を好きになってくれなくても構わないと思っていた。というか寧ろ当然だと思っていた。
 なのに。

 





 コップを彼の弟と妹に教えられるがままに片付けてから部屋に戻ると、ドアを開ける前に私の話をしていることに気がついた。
 更にそれが、彼に振られたこともわかった。


「そうだな……可愛いと思うよ。妹がもう一人できたみたいな――」


 まぁいいや、と思ってそのまま入るとそんな声と彼の後ろ姿が見えて。背中越しに渚くんと目が合った。

 渚くんは私の気持ちに気付いているらしく、色々気を遣ってくれたりしたことがあって、そのせいだと思う。
 私もびっくりするくらい真面目な顔と大きな声で彼の名前を呼んだ。


「まこちゃんッ!!」
「え?」


 驚いて肩を振るわせた彼が、振り向こうとした。
 そして彼がその動作に入りきる前に、私は踵を返した。

何で逃げたのかはわからない。
 渚くんの声に驚いたのかもしれないけど、それは微々たる理由だと思う。








 言っておくと、別にショックだったわけじゃない。これは意地でもなんでもない本音。

 確かに嬉しい言葉じゃなかったけど、決して悪意のあるものじゃなかったし寧ろ好意的だったから、少なくとも嫌われてはいないんだと知ることが出来たし。

 ……でも、歓喜することでもなかった。
 

 靴を履いてどこかへ走ろうとして、直後に足を滑らせた。アスファルトは摩擦力を受け取ってくれなかったらしい。
 ずるりと掌を擦り剥いて、大したものじゃなかったけど傷ができた。

 走る気は完全に失せて、半ば自暴自棄になりながら玄関外の段差に腰掛けた。
















 彼女を気にかけだしたのはいつだっただろうか、と真琴は考える。

 彼女が入部届を出したとき、正直意外だったし、大丈夫なのかなと思った。無口で無表情で、可愛いけど愛想ないよねとあまりいい噂は聞いていなかったからだ。
 
 でも、水の中の名無しさんはまるで別人だった。
 そしてそれ故に、目が離せなくなった。

 顔はあまり気にする方でないと自分では思っていたが、見れば見るほど名無しさんが可愛いことに気がついた。
 話しかけたときの首の傾げ方やふとしたときの控えめな笑顔は、きっと自分以外は知らないのだと思っていた。しかし次第に自分以外とも話すようになった彼女は、それまでの噂を全部かっ飛ばして隠れた人気者になっていたのだ。

 後ろから背中をちょんちょんつついてきて、なんでもないと言う名無しさんが可愛かった。大きな真っ黒の目や艶やかな髪、拗ねたとき尖らせる形のいい唇も、可愛いと思うようになった。
 気付いてしまえば最後、そうとしか考えられなくなった。

 でも、言ってしまえばこの関係が崩れそうで怖かった。

 








 ほらまこちゃん行ってらっしゃい、と威勢よく渚に背中を押され、部屋を飛び出し靴も踵を踏んだまま玄関のドアを開けた。

 どこまで行ったのかと考えながら、走ろうとした瞬間。


「って……嘘だろ」


 視界に知っている色が見えて顔を向けると、名無しさんがいた。


「……漫画みたいに思い出の場所とか公園に行くと思った?」
「いやでもまさか家の前にいるとは思わないと思う」


 いつも通り何を考えているか分かりづらい声色の彼女に近寄って隣に座る。
 靴の踵を通しながら、名無しさんの手に擦り傷を見つけた。


「もしかして、」
「転んでない」
「救急箱持ってくるよ」
「いらない」


 見る限り転んでくじけていじけたのだろう。そっぽを向いたまま目を合わせない。

 
「ごめん。気付かなくて」


 名無しさんは何も答えなかった。


「思い返したんだけど、……名無しさんちゃん、結構色々頑張ってくれてた?」

 
 名無しさんは何も答えなかった。


「……妹ってのは、その、そういう意味じゃなくて。一緒にいて楽、っていうか、えっと」


 名無しさんは何も答えなかった。


「まさか名無しさんちゃんもだなんて俺、ほんと知らなくて……!」


 名無しさんは何も答えなかったが、斜め下を向いていた顔がぱっと真琴の方を向いた。
 

「……も?」
「え?っあ、えっと、その、つまり――」


 人生であれだけ緊張したのは小学生最後のメドレー以来だった、と後に真琴は語る。
 上手く言葉が選べているか自分でもわからなくなって、心臓はうるさくて、目はどこを向けばいいのかさえ考えられなかった。
 
 そして。


「お、……俺でよかったら付き合ってください!」


 自然と早口になった。述べてから脚に両手をついてばっと頭を下げる。
 名無しさんの方を向いたときに見えた顔は、驚いていた。

 すっと静寂が下りる。
 真琴の耳の奥で早鐘のような心臓の拍動が響いていた。

 そして、


「……で、じゃなくてが、いい」


 玄関のコンクリートと自分の手脚の映像のまま聞こえてきたのは、名無しさんの声。
 
 そしてえ?と聞き返す前に名無しさんは真琴の首に腕をまわした。そしていつも通り、


「よろしくお願いします」


 平淡な声、しかし少しばかり照れたように笑って言った。







☆ 








「あのさぁまこちゃん」
「はい」
「何で進展ないわけ?あれからもうどのくらい経つと思ってるの?」
「い、いや一緒に帰ったりしてるよ?」
「それ前と変わってないから!」
「すいません……」


 項垂れながらあれ俺の方が先輩だよなと確認しながらも言われていることが図星であること、言われても仕方がないくらいの事実であることを考えた。

 あーもーと随分立腹らしい渚が唇を尖らせる。


「まこちゃん、僕がまこちゃんの彼女だったら振ってる」
「ええ!?」
「ない。……うん、流石にないない」


 ないわーと再度言われ、ぐさぐさと突き刺さる言葉を受け止めた。


「だ、だってもし嫌われたら……」
「え?」
「……俺、立ち直れないよ」


 正直、勿論、彼氏彼女らしいことはしたいと思っている。しかしいざ名無しさんを目の前にすると、いつも通り接してしまうのが真琴だった。
 気まずいと思ったりぎくしゃくしたりすることこそないものの、逆にそれは付き合うって何だっけ状態である。あれこれ前と変わらなくねと何度も思ったが肝心の一歩が踏み出せない。


「まこちゃん」
「はい」
「女々しい。でかいのは図体だけなの?」
「………………」


 ずぶりととどめの一撃を食らった真琴は完全に机に突っ伏した。









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