GS3長編 設楽聖司×お嬢様(完結済)

□四手のための
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気分になったのでピアノを弾いていると、ドアの外から物音がした。
集中できなかったので開けてみると美奈子が慌てて去ろうとしていて、呆れて呼び止めた。
聞きたいなら言えよと言うと、だって弾き始めたらお返事されないんですものといじけたような顔をされた。

そうして暫く。

ほう……と、感嘆の溜息が美奈子の口から漏れる。



「わたくしのお葬式に流していただきたいですわ」
「……」



そういえば葬儀専門のピアニストもいたな、等と考えながら初めて言われた褒めているのかよくわからない感想を聞き流した。

あれから随分と経つが、一度も彼女は弾こうとしない。
それが何となくつまらなくて、ソファーの隅っこに浅く腰掛けた美奈子に目線をやった。



「来い」
「はい?」



顎でしゃくるといそいそとこちらへやってくる。



「椅子持ってこい。座れ」
「え?」
「おまえも練習しろ。俺に合わせられるくらい」
「無理です。わたくし如きが」
「忘れてるだけだろ。感覚を思い出せ」



別に教育する気はさらさらなかった。
ただ、あの不協和音が耳に残っていて不愉快だ。

じっと見ていると困ったように美奈子が目を泳がせて、机の側にあった椅子を運んでくる。
横に座らせて、適当に楽譜を開いた。


相変わらず指が動かないらしく、弾こうとして固まり、無理矢理腕ごと下げるので不恰好で、まとめて鍵盤を押し込んでいる。
数回挑戦して、すぐに無理ですわと手を下ろしてしまった。



「無駄に力を込めるから手首が下がるんだ」
「入らないんですもの。お医者さまにはイップスだと言われましたわ。練習に耐えられなかったのでしょうね」



イップス、ジストニアなどといわれる運動障害がある。
緊張下で同じ動作を繰り返すような過度な練習に打ち込むと、意志に反して筋肉が突っ張ったり痙攣して思うように動かせなくなることがある。
スポーツ選手や小説家にもみられる障害で、怪我と違って身体組織には異常がないのが特徴だ。
プロのピアニストにも悩む者は存在して、急に活動を休止したり、時には引退に追い込まれたりする。

同じ動作を繰り返すと人間の脳はたまに誤作動を起こすらしい。
そのため時には違う練習に切り替えたり、充分な休憩が必要なのだそうだ。
他の原因としては、……。



「難聴の原因は?」
「心因性だと」
「……ふぅん」



こいつの場合は精神的に追い込まれたからだろう、と容易に想像がついた。
ピアノを聴く時はケロッとしている癖に、前に座った途端におかしくなる。

過度なストレスも同じくイップスの原因だといわれている。
美奈子の性格と、幼少期から続けていたという点を踏まえると単に過酷な練習だけでそうなったとは思い難かった。
加えて難聴は心因性だということも鑑みるに、他に原因があるのだろう。




「思い出してみろ」
「はい?」
「聞こえなくなる前に何があった」
「カウンセリングですの?何度も違う病院に引っ張り回されて試されましたのよ。あと向精神薬だか注射だか知りませんけれど……全部ダメでしたわ」



治療を思い出すように複雑な表情を浮かべる美奈子。
それきり黙ってしまった。

いいから触れるなと言われているようで設楽は不服だった。
散々踏み込んでおいて自分だけ壁を建てて入ってくるなだなんて不公平にも程がある。



「俺にも言えないか?」
「え?」
「親の前だから言えなかったんじゃないのか」
「……」



考え込むように目を伏せる美奈子。

未成年の場合、カウンセリングでも初回は親の同伴が必要なことが多い。
あちこちで受けていたなら、隣に親がいたのではないだろうか。
理由が家族かもしれない悩みを、本人らの前で言えるはずがない。
それに加えて親が過保護ときた。最初の頃執拗に聞き出そうとした可能性がある。


長い長い沈黙の後、美奈子がぽつりと呟いた。



「連弾は……ある日お父さまに言われて始めました」



思い出すように、左下をじっと見ながら話し出す。



「あの頃はわたくしがプリモで、お姉さまがセコンドで」



妹のメロディーを支える姉、姉妹愛、という文句は記事に何度か書かれた。
そんなこと自分では考えたことがなかった。
言われたまま、言われた方を練習する日々。
別に、どっちでもよかった。



「2人で練習していると、失敗する度にお姉さまに溜息をつかれて、舌打ちをされました」



ミスタッチが起こった時。満足いかなかった時。呼吸が合わず一瞬ずれた時。
左側から決まって聞こえたあの音。

申し訳なくて、自分の手が恨めしくて、隣に座る姉の反応ばかり気にするようになって。
個人で練習する時も、耳に残ったあの音が聞こえた。



「昔みたいに1人で弾きたかった。だけど、おまえは下手でそれじゃ売れないから、って言われて」



父親の言葉には何も言い返せなかった。
全くその通りだと自分でもわかる。
コンクールで姉が名を挙げる度に惨めになった。

何のために自分は弾いているのだろう、と毎日のように思った。

父親が厳しく言うから?
姉の機嫌を損ねない為に?
母親が優しく応援してくれるから?
……自分のため?

全部、自分が悪い。
父親が厳しいのも姉が顔を顰めるのも自分が下手だからだ。2人は悪くない。



「だから、お姉さまの声が聞こえなくなればいいって思っておりました」



姉は悪くない。自分が失敗するから不機嫌になるだけだ。
いちいち気にしてしまう自分が悪い。

聞くな、聞くな、聞くな、と。
毎日思った。
気にしない、聞こえない、何も知らない、と。
毎日考えた。

気づいたら、本当に左側だけ何も聞こえなくなっていた。
と同時に、指が動かなくなった。

その後のことは断片的にしか覚えていない。
忘れる筈がないのに思い出せない。



……と。

無感情な声でそう語ると、美奈子は取り繕うように笑って右上を見上げた。



「良い人でした。美しくて聡明で優しかったのです。溜息も舌打ちも、きっとわたくし以上にピアノに情熱的だったが故で、終わったらいつものお姉さまに戻るんですもの」
「いい。無理に相手を上げるな」
「無理なんかじゃ……んん」
「ほら見ろ。仲良しの押し付けだ。おかしいと思ったんだよ。お互い競い合ってた姉妹が急に変わったんだからな」



つまらなそうに設楽は答える。



「バーカ」
「うっ」
「バカだな、おまえ」
「ひどい」



呆れたような目で見られ、よよよ……と嘆く。

そうして美奈子はふと微笑んだ。



「……初めてひとに話しましたわ」



言えた、と嬉しそうに肩をすくめる。



「ふぅん。……まぁいい。じゃあ、おまえがこっちだ」
「え?でも」
「あと耳の外せ」
「はい?」



早くしろと促されて美奈子は急いで席を立ち、右側の椅子に回った。

躊躇したが、左耳の補聴器も外した。
いつもは結った髪を被せて隠している、耳に掛けるチューブのついたイヤホンのような機械。



「へぇ」
「あまり見ないでください」
「別に変なものじゃないだろ。眼鏡と一緒だ」
「…………」



ぼう……と音がぼやける。
世界が片側に寄ったようで気持ちが悪い。



「これじゃあ息継ぎが聞こえませんわ」
「聞こうとしろ。さっきの続きだ」
「……もう……」



構わず設楽が弾き始めたので焦って姿勢を正した。









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