GS3長編 設楽聖司×お嬢様(完結済)

□夏祭り
4ページ/4ページ






「本当に楽しかったですわ。天国ってきっとああいう場所ですのね」
「おまえの死生観がわからない」



人混みを抜けて会場を出て帰路についた。

まだぽわぽわしているらしい美奈子が下駄を鳴らしながら隣を歩いている。



「わたくし、今日のことずーっと忘れません」



大会の結果は、同じだった。
一昨年と去年と同じところが大賞をとったらしい。

頭の中を喧しい考えが巡って仕方ない。



「もうはぐれませんわ。手、大丈夫ですのよ?」
「……」
「あの?」



家の門扉が見えて、敷地内に入った。
黙ったままの彼の顔を美奈子が不思議そうに見上げる。

その目。
出会った頃からずっと変わらない目。

視線があった瞬間、疑問が口をついて出た。



「おまえ、何で俺を慕うんだ?」
「え?」



以前美奈子が言っていたこと。



「初めて舞台上で見た時って言ってただろ。いつだ」
「ええ、そうですけれど。……ええと。聖司さまが13歳の春頃かしら」
「ーーー」




背中が寒くなった。
手に力が込められる。

……よりにもよって、その年か。

良くも悪くも全盛期だ。
二重の意味で調子が最高潮で、思い出しただけで笑えてくる滑稽なあの頃。

最悪だ。
だってその年に自分は……。




「あれがか?」
「はい?」



不自然に力強く握られた手に違和感を覚えたのか、美奈子が首を傾げて設楽を見上げた。

目が合わない。

彼は妙な笑顔を浮かべていた。
自虐的な、思い出し笑いのような、歪んだ笑みだ。



「あの頃の俺は最悪だ。バカだったよ」
「……聖司さま?」
「ピアノなんて分かりもしないバカどもにチヤホヤされて、その気になって」



今でも耳に残っている。
目に焼き付いている。
一人でピアノの前に座るとき、決まって何かが語りかけてくる。

嫌いだ。
どいつもこいつも。



「時間と才能を浪費した。俺が一番バカだ」



美奈子が両手で手を握ってきた。
首を振って否定する。



「そんなことありません」
「ある。あの後、秋のコンクールで俺は逃げた」



何を言われても耳に入らない。
他の声が聞こえない程、自己嫌悪の不愉快な音がこびりついている。

うるさい。



「今だって逃げ続けてる。……ピアノを捨てられずにいるのに、いつまでもバカみたいに遊びで弾いてるんだ」



気持ち悪い。
吐きそうだ。

胃の奥が渦巻いているような不快感。
眩暈までしてきた。
血の気が引いて、頭が冷たくなったような気がする。


美奈子が泣きそうな顔で詰め寄ってきた。



「捨てなくったって、……今からでも、いいじゃありませんか。また全力でやれば大丈夫ですのよ」
「無理なんだよ」
「……」



低く言うと、彼女まで俯いてしまう。

それでいいと思った。
勝手に夢を見られて後から失望したような悲しい顔を見るくらいなら。



「だからおまえも、バカをバカみたいに慕うのはーーー」



瞬間。
美奈子がきっと顔を上げたかと思うと、ばちんと目の奥に火花が散った。



「……え?」



すぐに理解する。



「そんなこと、っ、そんなことおっしゃらないでくださいっ!!」



珍しく叫んだ美奈子が息を切らしている。

繋いでいた手を振り解かれて、そのまま頬に平手打ちをされたのだと気づいた。



「何で……」
「何ではこっちのセリフですわ!?ふざけないでくださいまし!ご自分のことをバカバカバカバカとうるさいですのよ!?」
「うわ、ちょっ、痛っ」



浴衣の衿に掴みかかってくる。
がくがくと揺さ振られる。
しまいには胸の辺りを拳でばしばしと叩かれた。

あれだけ毎日どんな時でも微笑んでいた彼女が見せた初めての本気の怒りだ。

日々の家事で鍛えた腕は意外と良い拳を振り下ろしてくる。



「痛……」



放心状態で呟いた。
じんとした鈍い痛みが顔や胸に響く。

美奈子は怒ったままの、つんと尖った声色で話し始めた。



「わたくしの自分語りを聞いてくださいます?いいえ、勝手に話しますわ。長いですわよ」



ぱっと設楽の衿から手を離すと、軽く息を吸う。
……ゆっくりと吐いて、少しだけ口角を上げた。

懐かしむような顔だった。



「今思えば、自分には目標が無かったんです。ピアノを頑張る理由も」



弾けと言われれば弾いた。
頑張れと言われたから頑張った。
ただそれだけだった。



「わたくしね、とにかくプレッシャーに弱くて。コンクールでも発表会でも、ずうっと自分の演奏の時以外は楽屋からも席を外していましたの」



まだ1人で、姉とはソロで競い合っていた頃。

いつも他の人の演奏を聞いたら緊張で固まってしまいそうで、ホールの外をうろついていた。
ロビーに座ったり近くの喫茶店に行ったり、時間を潰す方法はいくらでもあった。
自分の出番が終わっても、劣等感に苛まれるのが嫌で。うろうろ、うろうろと。



「でもあのコンクールは本当に偶然、席で見ておりました」



きっかけは覚えていない。
なんとなく疲れて、そういう気分になった。
久しぶりに姉の隣に座った。



「自分の演奏が終わって、少しばかりの達成感と虚無感を覚えながら、周りの音も聞こえない中でぼーっとステージを眺めていて」



またあの部分がうまくいかなかった。
また姉と比べられる。
さっきの人の方が上手い。
帰ったらすぐ復習して練習しないと。

頭の中は複雑に絡み合った思考でぐちゃぐちゃになっていた。



「そんな時ですわ。聖司さまの番が回ってきたのです」



司会のアナウンスの後、舞台袖から出てきた人物にふと目が止まった。



「あの全員を見下すような堂々とした入場、指を置いた瞬間の周りの空気。……色々考えていた筈なのに全部吹き飛んで、あなたから目が離せませんでした」



あ、この人は他の人と違う。と、直感で思った。
観客の雰囲気が変わったのもわかった。
混ざっていた頭が冷えて、聴かなきゃ、と耳を澄ませた。

全部無意識のうちに。
難しいことはわからない。
ただ、そうだと思っただけ。



「ひとつめの音が聞こえた瞬間から、もう呼吸も忘れたんですのよ。圧倒的ってこういうことを言うんだって肌で実感しましたわ」



彼の音が鼓膜を震わせた瞬間、何かが自分の中で崩れて変化した気がした。

自分はどれだけ小さいのだろう。
あれに、なれたら。
あそこまでいけたら。

羨ましい。
あの自信が欲しい。
あの音を出したい。



「ずっとずっと、わたくしに無いものを持つあの方みたいになりたい、無理でもいい、あの領域に近づきたいって思って、人生で初めて頑張る理由ができてっ」



あの後急いで名前を確認した彼の、あの音。

頑張る理由がなかった自分に初めて目標が、理由ができた。

……間もなくして連弾に移行させられて、努力とは関係ない部分で負けてしまったが。
最後の1年間は間違いなく自分の中で最高だった。







そこまで語って、美奈子は設楽をもう一度見上げた。



「天才だとかなんだとか周りは持て囃しておられましたけれど。わたくしにとってあなたの演奏は、才能でも努力でもバカでも何でも良かった」
「……」
「ただただ、好きだった。惹き込まれて魅了されて、惚れ込んだんです。あなたのことを尊敬したんです!」



唇を噛み、目尻に涙を滲ませている。
心からの叫び。

設楽は黙って聞いていた。



「別に今弾いてなくたってあなたの手指が無くなって弾けなくなったって構いません」
「……」
「わたくしはあの時確かにあなたに救われたんですもの」



薄く笑う美奈子。

彼は何も答えない。



「今だって。わたくしはずっと、ずっと救われ続けております。……それに第一、ですわ」



微かに息を吸う。
きゅっと眉に力を入れた。



「直感で好きだと思ったものを好きだと言って、お慕いして何が悪いんですの!?わたくしまで否定なさっていることにお気付きですかっ!?」



慣れない大声を上げているからか、掠れて裏返った美奈子の声。
感情を剥き出しにした叫びが、きぃん、と耳や頭に響く。



「ここまで申し上げてもわかっていただけないのなら認めてさしあげますわ。聖司さまはバカです」



もう一度設楽を睨むように見上げたあと、つんと顔を背けた。
呆れたように溜息すら吐いてみせる。


長く設楽は黙って聞いていた。
何も言わず、ただ目の前の女が語るのを眺めて。



「は、はははっ!」



そして笑った。



「……何がおかしいんですの、もう。ああ、また暑くなってまいりましたわ」



馬鹿馬鹿しくて。
おかしくて。

知らねぇよ、というかああそう、というか。
どうでもいい報告の筈だ。
感動したとか憧れるとか、そんな感想は嫌になる程もらってきた。

なのに。
自然と頭にすっと入ってくる。



「バカだな、おまえ」
「ええ、けっこうです。存じております」
「本当に、……バカで可愛いよ」
「……!」



溜息混じりに呟いた。

驚いたように振り返ってくる美奈子と目を合わせないように逸らす。



「悪かった」
「……本当に思っておられます?」
「思ってる」



訝しげに覗き込んでくるので顔ごと背けた。


不思議な気分だ。
照れ臭いような、ぶん殴られたような、何かが繋がって代わりに何かが消えたような。
複雑なのにどこか澄んでいる。

……そうか。
と、設楽は理解して呑み込んだ。



「おまえのでかい声で覚悟が決まった。逃げるのはやめだ」
「え?」
「高校で辞める気だった。……辞められなかったってことはそういうことなんだ。俺にはピアノしかないんだろうな」



あの高校にはピアノを辞める気で入学した。

どうすればいいのかわからなくて頭はぐちゃぐちゃで、それなのに足は自然と、未練がましくピアノに向かっていた。
弾けば弾くほど、自分もピアノも嫌いになった。
飽きるまで弾いたら捨てられると思っていた。

それがいつの間にか彼女がいるようになって、変わった気がする。



「本気で、1からやり直す。おまえに聴かせた一番最初の演奏を、また聴かせてやるよ」
「……!」



あれが美奈子の理想だと言うなら、あれをスタート地点にしよう。
そしてその後はもっと、……。



「おまえと遊びで弾くのとはどう違うか、教えてやる。……まぁ、腕は鈍りきってるけどな」



そこまで言って、設楽は自虐的に笑った。

美奈子は何も言わず、ただじっと聞いている。


……それでいい。
そんな彼女に救われた。



「今までみたいには一緒に弾けなくなるけど。いいな?」



美奈子の顔が泣き出しそうに一瞬歪んで、すぐに何度も頷いた。
すん、と鼻を鳴らして、嬉しそうな笑顔に変わる。


言ってしまった。
言葉にすると重たいが、何の後悔もない。



「……はぁ。勘を取り戻すのにどれくらいかかるかな。まずはあれをコンクール用に調律し直さないと」
「ひとつだけ否定してもよろしいですか?」
「ん?」



美奈子が真剣な表情で設楽を見上げる。



「あなたにはピアノしかないなんてこと、ありません」
「……」



嘘や冗談やお世辞の色は見えない目だった。



「ふぅん。例えば?」



じゃあ言ってみろと促すと、彼女はそのままの顔で言う。



「いくらでも語れますけれど、全部聞かれます?夜が明けてしまいますわ」
「……今日はいい」
「半分冗談ですのに」










.


次の章へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ