PSYCHO-PASS2

□土葬
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 モニターに目を向けたまま、ふーっと唐之杜が煙を吐いた。椅子を回して後ろを向くと、ソファに腰掛けた名無しさんの顔を覗き込む。



「名無しさんちゃん、ちょっと荒れすぎじゃない?」
「荒れる、ですか?」
「お肌も表情もだけど、犯罪係数。280越えたわよ」
「……。どれだけ上がっても潜在犯です」
「まーそうね」



 淡々と話す名無しさんの表情は変わらない。しかしどこかくたびれ、全てを投げうっている。
 
 以前の彼女はそうではなかった。機転もきくし頭も回るが、表情がころころとよく変わる。時折ドジを踏むものの基本的に何でもそつなくこなす、執行官らしくない執行官。頼りになる、問題児。
 
 しかしそこにはいつも、……彼がいた。



「やっぱ慎也くんの影響?」
「……」



 そう唐之杜が聞いた瞬間。表情を変えないまま名無しさんは立ち上がって軽く頭を下げたかと思うと部屋を出ていってしまった。しかし怒った、というわけでも、泣き出しそうという顔でもなさそうだ。

 一人残された分析官。



「んー……ちょっとずばーっと聞きすぎちゃったかしら」



 困ったわぁと全然困った風でない顔のまま煙草を灰皿で揉み消した。

 瞬間、ドアが開く。



「唐之杜」
「あー待ってたわよ。これとこれね」
「ありがとう」



 呼び出していた宜野座が入ってきた。名無しさんとすれ違ったであろうタイミングだが別段怪しんだ風もない。やはり泣いたり怒ったりはしていないらしい。
 
 彼は分析結果のファイルを受け取ると、素直に笑みを浮かべた。数ヶ月前までは想像もつかなかった表情に、唐之杜は唇をつり上げる。



「宜野座くんはこぉんなに丸くなっちゃったのにね」
「……何のことだ」
「名無しさんちゃんのこと好き?」



 瞬間、面白いくらい彼の肩が跳ね上がったかと思うとばさばさッ、と紙の書類が散らばる。手から滑り落ちたそれらを拾おうと慌てて宜野座がしゃがみ込んだ。

 椅子に腰掛けたまま唐之杜がそれを覗き、呆れ顔で告げる。



「今のあの子のサイコパス、過去最悪よ。図星なら慰めてあげたら?」
「な、慰める?俺がか」
「慎也くんいなくなってから犯罪係数上がりっぱなし。それ知ってて放置してるんでしょ?ほんとダメダメよねぇ」



 彼は見上げていた目を逸らし、それから立ち上がった。

 でも、と口を開きかけたのを制すように分析官は続ける。



「世の中にはねぇ、辛い時にそっとしておいてほしい女とそうじゃない女がいるの。あの子は前者に見えるけど完全に後者」
「……俺がどうやって」
「ま、頑張って〜」
「…………」











 飼い主と犬が争っていた。



「執行官!勝手にルートを変えるなって何度言ったら分かるの?あんたよあんた!聞いてる!?個人行動されちゃ困るって!!」
「先回りできるかと。騒ぐことでもないです」
「だとしてもあんた初犯じゃないでしょ!?何回目!?ああもう……独断で動かれて失敗されたらこっちの責任になるんだから勘弁しなさいよ……」



 青筋を浮かべる霜月に、無表情のまま淡々と答える名無しさん。

 他の執行官は既に解散していた。……逃げた、ともいう。



「任務は滞りなく完了しました」
「当たり前じゃない!」
「この辺りの地形を把握している者ならああ動きます。霜月監視官はもう少し経験をお積みになられては如何でしょうか」
「はぁ!?執行官が何を偉そうに──」



 腕を組みふんぞり返る監視官の横をすり抜け、執行官は頭を下げた。



「報告書は私が作成しますので。……失礼します」
「あ、ちょっ……!〜、〜〜〜〜〜ッ!!!ムカつくーーー!!!!」



 去る背中。
 響く絶叫。

 名無しさんは振り返らなかった。











 夜の風は冷たく頬を撫で、ぶるりと身体が震える。

 名無しさんが柵に腕を乗せて流れる車を眺めていると、突然視界が暗くなった。覆われたそれは柔らかい温かさがある。
 別段騒ぐ気分でもなく、何も言わずに頭から被せられた上着を外した。



「名無しさん」



 ふわっと漂った匂い通り、宜野座が隣に立っていた。
 顔を隠すような前髪は短くなり、彼のトレードマークのようだった眼鏡も外している。……随分、変わった。



「その、……何だ」



 決まりが悪そうに目を逸らす。

 そして彼は暫く、頬を掻いたり指で柵を叩いたり空を見上げたりどもったりしてから、



「……飲まないか」



 とだけ言った。










 案の定名無しさんの鼻は寒さで赤くなっていた。無愛想な無表情と相俟って子供のように見える。
 しかし宜野座がウイスキーの瓶とグラスを机に置くと、初めて薄い笑みを浮かべてみせた。



「これ、征陸さんの?」
「ああ」
「……ギノさんも、飲めるようになったんだ」



 弱かったもんね、と昔を知っている同僚はからかうように言う。
 
 とくとくという注ぐ液体と溶けだす氷が紡ぐからんという音が、静かな室内に空虚に響いた。名無しさんは机を挟んだソファに腰掛け、その様をじっと見つめる。


 ふと彼女は思い出したように立ち上がった。向かったのは、ソファの横に置かれた檻に座るふわふわの塊。



「忘れてた。ダイム、久しぶり。……だいぶしおれてるね?もういくつだっけ。元気?」



 老犬は床に伏せたままちらりと名無しさんを見る。起きあがるのも億劫らしい。撫でてくる手に僅かに擦り寄って、瞬きをゆっくりと一つ。
 名無しさんはしゃがんで膝を抱えたまま笑った。



「私?私は、……そうだなぁ」



 ダイムは何も言わない。



「もう何ヶ月も経つのに、まだ忘れられてない。周りにばっかりきつく当たっちゃうの。犯罪係数も280越えたって。……どんなに私が一人で怒ったって泣いたって、狡噛さんが帰ってくる訳ないのに」



 宜野座も黙ってその声を聞いた。



「寂しいよ。……会いたいなぁ」



 温かいふかふかを梳くように撫でながら、名無しさんは囁くように独りごちる。語尾は震えて、湿っぽい。

 誰にも言えなかった心の中。
 声を殺すこともせず、泣いた。











 暖房器具の音。



「別に、恋してた、とか……そんなんじゃなかった。人としては大好きだったけど、異性として好きかって聞かれたらそうでもない、と思う。……元上司で、先輩で、同僚で。尊敬してた。ずっとこの人について行きたいって、考えてた」



 ぽつりぽつりと名無しさんは独り言のように呟いた。

 あの男がいなくなってから初めて聞く彼女の本音。宜野座はただ、黙って聞いていた。
 時折傾けるグラスの音がやけに響く。



「いなくなってから、穴があいたの。私の全部を削られたみたいにぽっかりなくなって、どうでもよくなった。ああ、いっそ死にたいって思ったよ。あの新人の監視官煽ってたらドミネーター撃ってくれないかなって思ってるんだけど」
「……、」



 それは、と彼は言いたくなった。その喪失感は。
 ……しかし、じっと黙る。


 そんなことは薄々感づいていた。あの、名無しさんの彼に対する態度、表情、声色。ずっと見てきたのだから、分からないはずがない。
 
 にもかかわらず名無しさんが否定したのは、彼女が自分自身それに気づいていないからだ。
 実感している彼の存在の大きさと、実際の大きさ。そこにとんでもない誤差がある。……だからこれだけの、中々修復できない巨大な穴が開く。


 宜野座は眉間に指を持っていって、眼鏡がないことを思い出した。行き場をなくした手は頭を掻く。



「いくら頑張ったってもう狡噛さんはいないんだもん。褒めてくれる人がいない。……頑張ったな、って頭も撫でてくれない。笑いかけてもくれない」



 幼子のように言って、名無しさんはグラスを持たない方の手を握り締めた。
 伸ばしっぱなしの爪も構わず、強く。

 そして、俯いた。



「煙草の匂いもしない、トレーニングの音もしない、声が聞こえない、顔が見えない、だらしないスーツも、寝癖のついた髪の毛も、コーヒーの缶も、吸い殻も、……部屋も机もそのままなのに狡噛さんだけがいない全部全部全部そのままなのに帰ってこない戻ってこない会えない会いたいのに……なのに、」
「……名無しさん」



 目が焦点を失い、手の色が白く変わり始めても力を緩めようとしない。表情は変わらないまま口だけが動く。
 それは囁きよりも小さいかもしれない声だったが、二人だけの部屋には十分聞こえた。

 名前を呼んでも、瞬き一つ返ってこなかった。



「なのに、代わりにの新人、毎日、毎回、あの監視官、金切り声、うるさいヒステリックにぎゃあぎゃあ喚いて怒鳴ってうるさいうるさい偉そうに何もできない癖にマニュアルがないと無能な癖に新人のあの女ただの口だけであんな奴──」
「名無しさんッ!」



 声は段々速く大きくなって、目はどろどろと濁っていって。握り締めた手には爪痕がくっきり刻まれる。
 
 その異常なほど静かな豹変に、堪らず宜野座が立ち上がって肩を揺さぶった。

 ぱち、と瞬きを一つ。
 ゆっくり、見上げてくる。


 間近で見て初めて、彼女の目の下にある隈に気がついた。肩も腕も、こんなに細かっただろうか。もしかして眠れず、食欲も減退しているのか。

 見ていた筈なのに。自分は何も気づいていなかった。



「──あ、えっと……えへへ」
「飲みすぎだな」
「そうだね。ごめん」



 自分でも驚いたという顔をして、名無しさんは笑った。

 氷の溶けきったグラスが宜野座に取り上げられる。握り締めた手に彼の指が触れると、力が抜けた。血が滲んでいて名無しさんは驚く。そんなに強く力を込めた覚えはない。思い出したように掌が、指が、ぴりぴりと痛み出す。


 ソファの脇に立つ宜野座が、軽く息を吐いた。名無しさんがそれを見上げると、同時に覗き込まれて顔が近付く。彼女は咄嗟に身を引いたが、そのまま唇が軽く触れる。
 ……時間にして数秒。しかし随分と長い時間のように感じた。

 音もなく離れ、間近のまま相手を見る。

 

「すまない、名無しさん。俺は──、ッ」



 下から伸びてきた手に頬を挟まれ、引き寄せられた。宜野座はバランスを崩し、ソファに膝をつく。
 今度のキスは名無しさんからだ。触れるだけでなく、押し付けられる。ぬるりとした感触と熱、アルコールの匂いが唇から伝わってきた。



「ふ、」
「……ん」



 啄むように繰り返すと、次第にどちらからともつかなくなった。何度も何度も吸っては押し付け合い、舌を絡ませる。息は荒く、合間に声まで漏れた。

 宜野座は名無しさんの後ろへ手をつき完全に覆い被さってしまうと、自分のネクタイに指を掛けて緩める。彼女のワイシャツのボタンを外しながら、耳や首に吸い付いた。
 我ながら性急だとは思いながらも、自分の理性を上回る欲求がふつふつと沸き上がっていくのが分かる。


 慰めるなんてどうやれば、と考えた。全く思いつかずわからないままにとりあえず話だけでも聞こうとして、飲まないかと誘った。

 でも。
 言葉にはしなかったものの、彼女が狡噛に恋をしている。それを目にした瞬間、はっきり思った。実感した。理解した。
 いなくなった彼への優越感。対抗心。彼女への恋心。


 慰めたって無駄だ。
 何を言ったって結局は名無しさんの問題で、彼女が見切りをつけなければ意味がない。

 なら、忘れさせてしまえばいい。


 穴が開いたなら固めてしまえ。
 無自覚の恋など知らないまま葬ってしまえ。
 
 彼女の中で、彼より大きな存在になればいいだけだ。


 
 どちらかの目から生温い涙が伝って、頬を濡らした。













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