槙島さんと映画鑑賞

□傘はいらない
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映画「雨に唄えば」のネタバレがあります。ご注意を。








 外界から断絶されたこの部屋にもよく聞こえる音がある。

 ベッドに寝転んでいた名無しさんがそれに気付いてはっと顔を上げて立ち上がり、窓辺へ駆け寄った。槙島はソファに腰掛けたまま彼女を振り返る。



「ねぇ聖護、雨が降ってるわ」
「ああ、そうだね」



 ホログラムの使用されていない遮光カーテンを開けると、ガラスを叩く雨の粒。濃紺の夜空から降り注ぐそれを楽しそうに眺めながら名無しさんは窓枠に背中を預け、こてんと首を傾げた。



「踊ったりしないの?」



 今度は何だろうか、と槙島は考えを巡らせた。本を閉じると、彼女が最近観たであろう映画を思い返す。
 しかし雨の中踊るなんて作品はすぐに見当たった。



「君がキスしてくれるのかい?」
「いくらでも」



 雨に唄えばを観たのかなと言うと名無しさんは顔を綻ばせる。嬉しそうに駆け寄ってきて、隣に腰掛けた。

 少女と女性の中間を擽ったような彼女は行動や性格こそ子供っぽいものの、口調や好みは嫌に大人びている。
 そんな名無しさんは映画や小説を堪能した後すぐに槙島とそれらを語り合うことを好いていた。飽きるまで率直な感想を述べては聞き、満足すればもう何も言わない。

 白いスカートから伸びる足をぶらぶら揺らしながら名無しさんは槙島にもたれかかる。



「男の人ってああも浮かれちゃうものなの?」
「どうだろうね」
「聖護はいつだって余裕たっぷり。つまんないわ」
「ひどいな」
「ふふ」



 唇を尖らせながら彼女は言って、それから笑った。

 雨は相変わらず降り続け、ガラスを叩く。その音は2人の声が通る室内に反響し、心地よく鼓膜を揺らした。



「聖護」



 名無しさんが悪戯っぽく笑う。
 何かを思いついた時に見せる笑顔だと槙島は悟った。

 なに、と問えば、有無を言わせない質問が返ってくる。



「ちょっとだけ散歩しない?」
「風邪をひくよ」
「構わないわ。歌わないもの、私」



 歌うスターでない彼女は喉に気をつける必要はないらしい。

 槙島は肩をすくめ、名無しさんは立ち上がった。









 降りしきる雨の中、くるくる回ったり走ったりと楽しそうな彼女を槙島は遠い目で見つめていた。彼は傘をさしている。
 やれやれと思う気持ちと、名無しさんが満足するならいいという甘い気持ちが入り交じった複雑な思いだった。

 名無しさんが、水を吸って重くなった白い服の裾を広げてみせる。黒い髪もぐっしょりと濡れ、前髪から雫が滴り落ちて消えていく。



「見て、シャワーを浴びたみたい」
「……ああ」
「綺麗ね。消毒された水よりよっぽど綺麗だわ」



 目を細め、腕を伸ばして掌を街灯にかざした。爪や指に絡む水が光る。
 
 急に名無しさんが不満そうな声を上げた。



「やだ、靴が気持ち悪い」
「だろうね」
「ドンったらこんなのでタップダンスしてたの?素敵」


 
 生温さと冷たさを指先に感じ、眉を寄せる。踏み出す度に噛み合わない靴と靴下、足が嫌な音を立てた。
 それを払拭するように名無しさんが水溜まりを軽く蹴飛ばして、また笑顔を見せる。



「君はすぐ影響されるな」
「そうよ。ばかだもの」
「もういいだろう。本当に風邪をひくよ」
「ひいたら看病してくれるんでしょ?」



 少し前を行く彼女。帰ったらどうしようかと考えながら声をかける。



「まぁね。僕がいないときはグソンになるだろうけど」
「それは嫌」
「苦手かい?」
「あの目、嫌いだわ」
「へぇ。義眼だから?」
「そうね。聖護の目と違う」



 名無しさんは額に貼り付く前髪を鬱陶しそうに避け、また空を仰いだ。

 濃紺に溶け込みながらも白く浮き立つ彼女。槙島はそれを絵画のように芸術的だと見つめ、ふぅっと息を吐く。
 いよいよ寒さに負けそうだ。



「帰ろう。おいで」
「……」



 名無しさんが振り返り、唇を尖らせた。そのわかりやすい反応に苦笑を浮かべて、槙島は腕を伸ばす。

 しかしそれが掴まれることはなく、濡れた身体が彼の胸に飛び込んできて思わず驚きの声をあげた。
 その反応にくすくす笑う名無しさんが顔を上げる。



「僕まで濡れる」
「いいじゃない。帰ったらシャワーを浴びるわ」
「……それは一緒に?」



 返事はなかった。
 しかし唐突に傘が奪われ、見る見るうちに雨の雫が彼の服も濡らしていく。


 確かに、悪くない。
 そう思った。








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