PSYCHO-PASS

□狩り
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 屋上、ではない。その下の非常ドアを出て階段を下りた、踊り場だ。普段、錆び付いたそこへ人が行き来することは殆ど無い。

 そこへ人がいるとすればそれは、人目を避けて何かをする時。



「聞いてるのか、おい」



 彼女は、呆れたような声が背中にかけられても一切振り向かなかった。表情はうかがえないにしろ、眉一つ動いていないだろうことは想像できた。



「お前まだ19だろ」



 監視官、狡噛がもう一度かけた声も独り言に終わった。なお手すりに肘をつき、遠くを見ている。ゆらゆらと空中に揺れ、消えていく紫煙。



「……」



 狡噛は変わらない態度に浅く溜息をつき、彼女の横まで進み出た。気怠そうに煙草を指に挟む姿は、整然とスーツを着た彼と対照的だ。



「おい、名無しさん!」



 口に持っていこうとしたそれを引ったくると、漸く彼女、名無しさんが狡噛を見上げた。

 くたくたのスーツを肘まで捲り、靴は踵を潰している。伸ばしっぱなしの髪はすっかり傷んでいて、顔は化粧っ気はないもののしかしひどく整っていた。そんな執行官は不機嫌そうに唇を尖らせて取り返そうと手を伸ばす。



「返してよ」
「吸うなと言ってる。無視するからだろ」
「意味わかんない。何で無視されたはい取り上げーってなんの」
「未成年の喫煙は法律で禁止されてる」



 その手が数度空を切った辺りで諦めたのか、名無しさんは顔を背けて遠くを見た。ビルの建ち並ぶ景色が眼下に広がる屋上とは違って、こちらは空も見えない。ただ、コンクリートに遮られた狭い空間である。

 そして言った。



「……あんたさぁ、調子乗ってない?」
「調子?」
「そーいう正義感みたいなの、大っ嫌いなんだけど」



 二本目を取り出そうと腰ポケットを探るが、舌を打った。どうやら最後の一本だったようで、手にした空の箱を握り潰す。

 更に不機嫌さを増した表情が狡噛に向けられた。



「自分の思う正しいことと違ってる対象に向かって強引に意見押し付けて、仕方なく応じてやっただけの相手に得意顔するでしょ。自分のやってることは正しいんだ、もっとやらなきゃ、とか考え始めてんじゃないの?」
「……」
「何やったって所詮私たちは潜在犯だから、煙草やめたってお酒やめたって犯罪係数下がんないの。ばれないようにちゃんとこうやって隠れて吸ってるのに、あんたがわざわざ粗探しするから悪いってわかんない?」



 さり気なく飲酒まで告白されてしまったが、そこまで揚げ足を取る気にはなれなかった。正論といえば正論、しかし半ば屁理屈のような彼女の持論。

 確かにそうかもしれない。公安局としての責務を全うすることは狡噛にとっての正義だが、それは潜在犯の正義の上に成り立っている。どんな理由があれ犯罪係数が上昇すれば執行対象なのだ。ドミネーターの引き金を一度引けば終了。それは殆ど毎日繰り返されるし、繰り返さなければならない。
 それから文字通り、執行官の監視という仕事。名無しさんのような反抗的な人物をも導く、指導係。

 
 何一つ話を聞く気のない彼女の態度に、その反論への反論もする気にならなかった。ただ、呆れた。
 名無しさんは最初こそ堂々とデスクや喫煙所で吸っていたものの、最近ではめっきり見ない。だが隠れているからといって禁煙しているという訳でもなく、根本的解決になっていないと狡噛は探し出して止めてきた。

 別に鬱陶しがられるとは構わない。が、自分の思いがこれっぽっちも伝わっていないとは思わなかった。



「ハァ……俺はお前の健康と法律を思っ、」
「あーあーあー」



 遮る名無しさんは更に続ける。



「健康?余計なお世話。あんた達監視官と違って執行官は使い捨てなの。早死にしようが代わりはいくらでもいるのほっといて。法律?そんなのお偉方が外交的に都合がいいから作ってるだけでしょ。国民全員取り締まれると思ってんの?煙草なんて税金いっぱい納めてやってんだからむしろ感謝されると思うけど」
「……変な知恵はあるな」



 だからもうどっか行けと全身で訴えられる。が、新米監視官狡噛は退かなかった。

 煙草を取り上げたのと逆の手で、突き出す。



「何これ」
「お前の犯罪係数だ」
「……何、それ」
「上下が著しいのがわかる。影響されやすいんだろ」
「……」



 数枚のコピー用紙に印刷されたグラフに記入されているのは、どうやら名無しさんのサイコパスの変化らしかった。日時、犯罪係数の上下、色相。事細かに刻まれたそれは忙しなく変動していることが分かる。



「上昇傾向にあるのは仕事がある、特に出動した日だ。ドミネーター使用後がピークで、ここから下がってる」
「……」
「お前、人殺しのストレス解消に煙草吸ってるな?」



 名無しさんは横目でそれを見ながら、視線を下と遠くへ数度泳がせた。


 使い捨て、と言った。少なくとも、公的にそんな扱いは受けていない。しかし監視官と比べて入れ替わりの激しいのは間違いなく、そして危険であることも確かだ。

 執行官は潜在犯であるということは忘れてはならない。本来なら施設で隔離されるべき存在なのに、適性があるという理由で駆り出される。それでも、監視つきという条件はあるものの施設暮らしよりはるかに自由もあり、正常な者とほぼ変わらない生活が送れている筈だ。
 それから監視官も同様だが、人を殺す。シビュラシステムに判断こそ委ねるものの、引き金を引くのは人間である。パラライザーで済めばいいが、そうはいかないのが現場だ。
 狡噛も最初のうちは気分が悪くなったり嫌にもなった。が、これが仕事だと割り切れるようになってからは変わった。成長だと思っていた。

 潜在犯であること。執行官であること。人を殺すこと。
 名無しさんにとってそれらは何かしらのストレスになっているらしい。繰り返す他人に迷惑をかけない程度の非行は自傷的だ。



「……それ、唐之杜さんにでも頼んだの?」
「いや、俺の手書き」
「気持ち悪っ!」



 名無しさんは顔を背けた。

 沈黙が降りて、周りの雑音が遠くに聞こえる。



「……執行執行っていうけど、そんな簡単に殺していいの?旧時代の死刑執行ってもっと慎重に行われてた筈でしょ。何回も裁判して、結果はニュースで大袈裟に報道したりネットで騒いだりして」



 やがて名無しさんが呟いた。



「旧時代は旧時代だ。現代はシビュラシステムに従うことが国民の平和だからな」
「そのシステムに疑問を抱かない時点で頭おかしいよ。奴隷だね、あんたも国民さまも」



 そう言うと彼女は肩を竦め、思い出したようにはっとして胸ポケットに手を突っ込んだ。そして、取り出す。どうやら一本残っていたらしい。



「それ、佐々山と同じか」
「……代わりに買ってもらってるだけ。別に何でもいい」



 少しばかり表情を和らげてそう答えると、手で覆ってライターを近づけた。最初の煙がふわりと漂う。

 狡噛が重い溜息とともに身を彼女の方へ乗り出した。同時に名無しさんも仰け反って後ずさる。



「吸うな」
「やだ」
「寄越せ」
「やだ」
「暴れるな、こら」
「何がこらよ子供じゃあるまいし」
「俺からすればまだまだガキだ」
「あ、ちょっと、返せ!」



 また強引に取り上げたそれを頭上へ掲げる。伸ばした腕に向かってぴょんぴょんと飛び跳ねる名無しさんはまた不機嫌そうな顔をしていた。



「届くか」
「届かないっ!あーもー、この暇人!」



 舌打ち混じりにそう告げると、ふんっとまたそっぽを向いた。

 微かに煙の上がるそれは興味こそあれど、狡噛には縁遠いものだ。その一本はまだ真新しく、名無しさんも一度しか咥えていない。



「何が旨いんだ、こんなの」
「は?……え、」



 興味がわき、ふと口にしてみた。軽く吸ってみて、直後咳き込む。
 そのげほげほという声に彼を一瞥した名無しさんは驚愕し、固まった。ぽかんと口が開き、息を飲む。



「……、……ッ!」



 一度だけとは言っても自分が口付けたものに他人が、しかも異性が。同じように。口を付けた。


 視覚的暴力により精神ダメージを食らった名無しさんは見る見るうちに真っ赤になった。顔に血が上る。耳まで熱い。

 狡噛から飛び退き、更に後退り、躓きかけて立て直す。離れたところでやっと彼に背を向けた。
  


「〜〜〜〜帰る!!」
「待て」
「うるっさい!ついてくんな!ばーかばーか!」



 来るなとぶんぶん手を振って、階段を駆け上がる。もうこちらを見向きもせずにドアを開けて見えなくなった。
 残された狡噛。

 監視官は溜息混じりに階段下を振り返った。



「佐々山」



 暫くの沈黙の後、しまったといわんばかりに苦々しい顔を覗かせたのは佐々山だ。
 二人のいた踊り場から見えない死角に立っていたらしい。名無しさんは気づかなかったようだが。



「……よ、監視官サマ。気付いてた訳?」
「あいつに煙草渡すのやめろ」
「いや最初は俺も止めたよ?でも高く買ってくれるって言われちゃったらさぁ」
「やめろ。いいな」


 手にした煙草で佐々山を差し、落として踏み潰した。
 単刀直入に有無を言わさず、更に力強く念を押され、同じ銘柄の煙草を咥えた執行官は肩を竦める。

 しかし直後、不敵に笑った。



「なーにが健康と法律だよ。あいつ説教嫌いなの知ってんだろ?俺ならあそこでキスするね」
「──」
「ごちゃごちゃとうるさい口をこう……」
「黙れ」
「まぁ名無しさんチャンはウブだから、あれだけでもかなーり効いてたっぽいけど」



 こう、と空中に向かってやってみせる彼に狡噛は呆れるが、今に本物にもやりかねない。
 無意識に眉が寄った。



「そう睨むなよ。まだ手ぇ出してないから」
「‘まだ’?」
「でもグズグズしてっとやっちまうかもな。可愛いし、頑張っていきってる感じとかも良い。男慣れしてないのもポイント高ぇ。それにアレは更正したら相当化けんぞ。六合塚唐之杜越えは確実だな」
「…………」



 べらべらと佐々山は言い切り、無精髭の顎をさすりながら笑う。
 女好きの彼のことだ。嘘ではないとわかる。日常茶飯事のように尻を触っては手痛く仕返される二人を越えるということは本気だろうか。
 更に彼は執行官だ。監視官の狡噛と違って名無しさんと近い部分があることは違いない。

 そう。
 監視官と、違って。
 


「まだ何か躊躇ってんだろ。監視官と執行官がどーのこーのって考えてんじゃねーの?」
「……当たり前だろ」



 どんどんと表情が気難しくなっていく狡噛を見かねたように佐々山が言った。
 飄々とした彼の言葉は軽く聞こえるが、しかし裏があるようには思えない。



「別に付き合ったってよ、はい結婚はい妊娠出産おめでと〜って訳じゃねぇだろ」
「お前な」
「告られてじゃあ宜しくじゃねーならまだしも好き合ってんなら、一緒にいて得るモンも多いと思うぜ。それに……」
「?」



 落ちた煙草を一瞥した後、片方の眉を上げた。



「障害あった方が燃えねぇか?お前だったら職種。俺なら、お前」



 狡噛は息を飲んだ。

 不敵に笑った彼の目は、間違いなく本物だった。ドミネーターを向けた相手の犯罪係数が300を超えたとき、引き金を引く前に浮かべる表情。獲物を前にした猟犬の目。

 
 監視官は言葉に詰まり、しかし直後皮肉に笑い返した。



「……この、クソヤロー」
「何とでも」















「聞いてる?ちょっと」



 彼は、呆れたような声が背中にかけられても一切振り向かなかった。表情はうかがえないにしろ、眉一つ動いていないだろうことは想像できた。



「吸い過ぎ」



 口に持っていこうとしたそれを引ったくると、漸く彼、狡噛が名無しさんを見上げた。

 執行官は不機嫌そうに唇を尖らせることも取り返そうと手を伸ばすこともなく、諦めたように言う。



「デジャヴだな」
「何年前よ」
「潰すなよ。最後の一本なんだ」
「机にカートン積んであるくせに」
「あ」



 さらさらと名無しさんの黒い髪が揺れた。取り上げた煙草は口を付けられることはなく、そのままコンクリートに落とされ、踏み潰される。
 
 狡噛が仕方なくポケットを探っても出てきたのはやはり空の箱だった。浅葱色のそれは昔から同じデザインだ。

 執行官は笑った。



「変わったな、名無しさん」



 振り返っても、奴はいない。













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