PSYCHO-PASS

□はじめまして
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何か、物音がしたような気がした。

閉じていた目を開く。

ぱち、と枕元の照明をつけ、眩しさに眉を顰めながら身体を起こした。

ベッド脇のスリッパに足を通すと、音を立てないようにドアへ向かう。



「……」



ゆっくりと開錠して、目元だけ覗かせるようにドアを開く。

風か何かかとも思ったが、なんだか変な予感がした。

するりと身体を隙間に滑り込ませるように外へ出ると、表から漏れてくる僅かな明かりを頼りに歩いた。



きぃ、と金属と木が擦れる音。

ふわりと流れる空気。



何度も歩いた道。

目を瞑っていても辿り着ける。



「……」



誰かいるの、等とは言わない。

嫌な空気がじっとりと貼り付いていたから。


やがて目が慣れてくると、遠くにオレンジ色の光が見えてきた。


……夫婦の寝室だ。

2人とも自分とは違って眠りは深い方だった気がする。

こんな夜中に、何かあったのだろうか。


足音を潜めたまま近づいて、耳を澄ませた。


聞こえる。



「……!……、……!!」



……男女のあれこれかとも思ったが、随分とうるさい。

声を荒げている、という意味ではなく、……何というか。

スポーツか何かをやっているような。



「……」



ゆっくり、ゆっくり。

ドアノブを押し下げて、かすかに開けた隙間に目を寄せた。



「ーー」



目が合った。

反射的に退くと、数歩下がる。



「名無しさん」



父親の声だった。



「名無しさん、おいで」

「……」



嫌に粘ついた声。

自分の知っている彼はこんな発声はしない。



「名無しさん〜」



がぢゃん!と勢いよくノブが下がり、蹴り飛ばされたようにドアが開いた。



「……え、ぁ、ーっ!」



真っ赤な父親が顔を覗かせ、口元を醜く吊り上げながら飛びかかってきた。

手には、見慣れた形の刃物。
包丁だ。それもキッチンにあった。
昨日の食事だってそれで調理された。


いや、凶器なんてどうでもいい。

身の危険を感じると同時に名無しさんは背を向け、走り出した。

かぽかぽと動きづらいスリッパは脱ぎ捨てる。


脊髄で判断したのは自分の部屋。

駆け込み、鍵をかけた。



「……」



上がる息を整える。


……ええと。
まず状況を整理しよう。


……母親の方はやられたか。
死んでいなくても重症だろう。
血のついた包丁を握りしめていたのにあれだけ俊敏に動けたということは、他人の血だから。

まさか獣を捌いていたなんてことはありえない。
虫にも触れず、釣りすらできないあの男のことなのだ。



ダンダンとドアが叩かれる。



……遂に、気が触れたか。



はぁ、と名無しさんは重く息を吐いた。



「……」



ガリガリとドアを削る音がする。



靴を履く。
走れるように。踏み込めるように。

明かりを消し、目を閉じる。
一瞬でも見失ってくれればいい。

雑多に積み上げられた椅子を手に取る。
どうせ包丁なのだから、距離を取るために。



この部屋で、私を殺せると思うなよ。



手を伸ばし、鍵に触れる。

指をかけて、弾くように捻った。



かちゃん、と軽い金属の音。



静寂。



「あぁあああぁぁぁあっあああああ」
「ふ、っ!」



奇声を上げて乗り込んできた彼の頭目掛けて、思い切り椅子の脚を突き出した。



「ぁがっ」



そのまま、刺又の要領で押し返し、股間を思い切り蹴り上げた。

……が、痛がりもしない父親はぶんぶんと手を振り回して抵抗する。



「……薬でもキメた?」



皮肉に笑えた。

自分にはまだ余裕がある。


掴んでいた椅子の背から手を離すと、飛び退いた。



ああ、普通に力で勝てるはずがない。

あの一撃で少しでも隙が作れたら勝ちだったが、想定外だった。

痛くないということは、彼は絶命するまで全力が出せてしまう。

怯まないし、蹲りもしないし、武器を落としもしないだろう。



死……?



死体は見ていないが、あの女のように滅多刺しにされて、血を撒き散らして死ぬのだろうか。


もう一歩下がると、手に当たる物があった。



……ん?

……あれ?

これは……



「ぎゃぁぁああっごぁおぼぇえ」



試してみたら、相手は顔を押さえながら地を這いずってのたうち回っていた。

頬骨でも抉り取ったのだろうか。

痛くなくても、視界に広がる赤や溢れてくる血液にむせ返るくらいのことはあるかもしれない。




「あ゛あぁあああぃぃあ」



うるさいので、もう一発。

首を踏ん付けて、顔の中央を狙って。


ぱかん、なんて間抜けな音がして、耳が鳴った。

肩にくる反動。痛い。



「……あー」



きぃぃぃん、と頭の奥からハウリング音のようなノイズが響く。

試しに声を上げるが、いまいち聞こえなかった。



「……」



安全装置は外れていたらしい。

使い方なんて格好しか知らないから、あの場で止められていたら終わっていた。


……自分のではない本物の銃。

何故か机の上にあって、後退った先で手に触れた。



誰かいる。

あの夫婦ではない。


誰か、このことを解っていた者が。


この家に。



「……」



ひとまず、母親の様子を見に行くことにする。

生きていたら彼女も怪しい。

死んでいたら、第三者はどこだ。



「っと、」



ずる、と足が滑る。

暗くて見辛いが、血がかなりの量溢れてきていた。
早めにどうにかしないと落ちないかもしれない。

廊下のカーペットで靴の裏を拭うと、先程より注意深く周りを見ながら歩く。


錯乱した父親が暴れ回ったらしい。

花瓶やら額縁が割れている。



「……」



人の気配はなかった。

息を潜められていたら気付かない、が。

多分、大丈夫だ。



「……うわ」



ドアを開けると、想像通りの光景が広がっていた。

ベッドの上に、血塗れの身体。

はみ出した内蔵がオレンジ色の照明を微かに反射している。

鉄の匂いがまだ温かく、鼻に付く。


電気を付けよう。


そうだ。


部屋の電気を……



「おっと」
「ーー」



スイッチに伸ばしたその手が掴まれて、流石に驚いた。

心臓が縮んで息が詰まる。



「ああ……つい……気付かれたのかと」



目線だけ向ける。

下手に身体を動かすと、不利なこの状況がますます悪くなると思った。



「ちょっと、失礼」



あ、と抵抗する前に、首の横辺りに注射の針が刺さっていて。

急速に瞼が落ちるのを感じた。











「ありましたよ。合計2人。1人ずつ持ち回りで勤務。日中の掃除、洗濯、料理のみ」
「次は何時だ」
「……7時。あと3時間ってとこです」
「連絡は取れるかい」
「番号しかありませんでしたよ。今時電話一本とは」
「成る程ね。彼の意向かな」



目を覚ましても暗闇だったので、寝たふりを続けていた。

顔に布を巻かれているらしい。
手足も縛られているようで、身動きが取れない。

……殺意はないのかもしれない。
だとしたら、意図がわからない。



「で、どうするんです」
「ああ」
「さっさと消した方が」
「見ただろう。あれを」
「……ええ、まぁ」
「父親はつまらない最期だったが」
「ああもあっさりやるとは」
「彼女の存在は公表されていないな。夫婦2人で生活していることになってる」



……ああ、自分の話をしている。

名無しさんは反応しないように目を閉じた。



「起きたなら話すといい」
「……取りますか?」
「ああ」



狸寝入りを見透かされ、舌打ちを堪える。


さっき部屋にいた人間と、もう1人。

話し方から察するに、彼の上司か何かかもしれない人間。


……どうしようか。


足音が後ろにまわると、後頭部に指の感触。



「手荒な真似をした。すまないね」
「……」



黒い布が名無しさんの身体に落ちる。

すっかり電気が付けられた室内の眩しさに目を細めた。



「君の……父親が殺人を繰り返していたことは知っているかな」



首を振る。



「4人。彼は自ら殺した」
「……」
「カウンセラーという仕事に疑問を抱き、同時に焦っていたんだそうだ」
「……」
「妻の色相が年々悪化していると話していたが、見たところ君もだな」



ぺら、と机の上の紙を捲る。

出力したデータ。



「彼は、」
「あの」



名無しさんが口を開く。



「……何故死んだ人の話ばかり?」



自由になったばかりの目を丸くして、小首を傾げながら訊いた。



「少しは自分のこととか、私のこれからについて教えてくれない?」



手足にベルト。

ご丁寧に首にも巻かれて、動けないように後ろに固定されている。


殺すならさっさとすれば、と。
名無しさんの目はそう告げていた。



「外してくれる?」
「……」
「逃げないわよ。どこにも行くところなんてないんだから」












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